かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

蝸牛随筆(8) サイゼリヤ讃 Ⅱ

 「若鶏のディアボラ風」。よくグリルされた若鶏の上には、香味野菜の微塵切りが乗せられており、付け合わせのバターコーンに、軽くフライした角切りのポテトと、空腹に呻く胃袋をザワつかせる芳香を放つタレが脇を固めている。

 「ディアボラ」とは当地における「悪魔」の意であったと記憶しているが、果たしてこの料理のどこにそんなものが潜んでいるというのだろうか。大人も子供も、この肉を一口頬張れば、心に巣くう如何な邪念も悪魔も、滂沱のごとき垂涎のうちに退散するであろうこと請け合いである。

 さて、この「悪魔的」な美味しさの一皿を余すところなく堪能するにあたり、私は私の全神経をナイフとフォークの先に集中させる。それはあたかも手指の延長であるかのように、香ばしいにほひと音と、金色の肉汁とを湛えた肉を腑分けにかかろうとしている。

 肝心なことは、如何にしてこのソースを上手く塩梅して食するかという一点にある。ここで考えなしに肉を切り分け、無粋にフォークを刺し込みして、そのままタレの容器に突っ込めば、折角の香味野菜が散り散りになってしまうことだろう。墜落したそれは無惨にも鉄板の上に散乱し、見た目にも好もしからざる効果をもたらすとともに、「香味野菜を添えて食されたし」という、そもそもの料理の意図を蔑ろにする畏れもあるから、ここはよろしく慎重を期さねばならない。

 さればよ、と私はこの香味野菜を余すところなく食すために一計を案じる。というか十数年来、来店する度毎に、考察に次ぐ考察を重ねてきたと言っても過言ではない私である。あまりの考察によって、毎度手順というか作法がマイナーチェンジしていることはご愛敬であるけれど、ソースにどぶ漬けしていた時代よりかはきっと、少なくとも洗練されているはず、であると思いたい。