かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

蝸牛随筆(9) サイゼリヤ讃 Ⅲ

 まずナイフの先でそおっと、香味野菜の表を撫ぜるように形を整えて、内陸部に窪みを拵える。それはやさしきクレーターであり、それはソースを受けるための窪みに他ならない。

 騒ぐ心を鎮めつつ、窪みの表面を美しく整形したら、音もなくナイフを皿の端に待機させる。待つ身がツラいか、待たせる身がツラいか、この際結局どちらもツラいことにかわりはないのであるが、ナイフを握ったまま次の手順をふむとなると、それが実に「がっついてる感」が半端ではないので、ここは断固たる意志でもってナイフを置き、しかる後にソースの容器を徐につまみ上げる。

 緊張の一瞬。ゆっくりと容器が傾いて、とろりとソースが零れだす。そしてその滴はしたしたと香味野菜の窪みに落下してゆく。

 するとどうだろう、ソースは肉の表面を徒に滑ることもなく、一滴、そしてまた一滴と香味野菜の懐に吸われて、じわりじわりと浸透してくるではないか。ここまでくると、もう待ち切れんとばかりに、コーンスープで下地をつくった腹がぐう、と鳴るが、まだ焦ってはいけない。

 いい塩梅にオニオンの白地がソースに染まりきったところで、これを肉の上で能く絡めて馴染ませる。これは使い付けないナイフとフォークを使うにあたっての、大切なメソッドでもあるのだ。

 今のところ一滴たりともソースが無駄にせられた形跡はない。仕込みが済んだ香味野菜をゆっくりと片寄せして、いよいよナイフを入れる。どこかのテーブルで押される厚ぼったいピンポンの音を聞きながら、私は注ぎ出した肉汁の分流を無心に眺め入っている。

 切っては香味野菜をのせて食し、そしてまた切ってはのせて・・・それは無上の幸福を反復し、食する時間である。時にバターコーンを、そしてまた思い出したかのように、ポテトを残しておいたソースへ付けて、私の舌はのべつ感動を新たにしてゆくのである。

 仕切りを隔てた隣のテーブルに、幼い子供が「ヤミ、ヤミ」と申している。いやいや、これは格安で提供されているからといって、決して「闇」で仕入れているわけではない。「サイゼリ屋さん」の不断の経営努力の賜であるわけだが、では何故あの子は「ヤミ、ヤミ」と申すのだろうか。

 「あんな小っちゃい子も、英語やってるのね。」と、ドリアのスプーンを止めた妻が言う。「ああ、英語か。」これはなかなか油断ならない世の中になってきたようだが、「サイゼリ屋さん」には幾久しくこの味を守ってほしいと願ってやまない私である。妻の腹にある子が生まれ出でたらば、きっとここへ連れてこようではないか。

 その日まで、いや、もっと遠い未来まで、サイゼリヤよ、いや「サイゼリ屋さん」、弥栄。