「共通テスト」の国語で顕著なのは、二つの文章や添付されている図表を比較するというものです。以前は現古漢文を合わせて四つ、それぞれ二十分以内に読み込めば事足りたものが、しめて五つになったり、論説文にチャートが付いたり、果ては資料にまで目を通す羽目になったりと、やけに盛りだくさんになってしまいました。
そうなってくると、これもまたある程度のスピードでさくさく読んでいくことが不可欠になってきますし、毛色の違う文章を比較するにあたっては、早い段階で双方の文章のテーマや意図を掴んで類似点や対照性を見いださなくてはなりません。
練習問題を一緒に解いていても、なかなかどうして牽強付会な文章のマッチングに遭遇したりして、理解に苦しむこともありますが、そのマッチングの必然性を問うているヒマなどありません。
ここにおいて求められているのは、与えられた情報のキャラクターをすばやく掴む能力であり、雑多な情報を即座に整理する能力なのです。
こうした「求められる力」の変化は、世相の変化と密接に絡みついています。膨大な情報の束から必要な情報と、そうでもない情報を取捨選択する力とは、実にスマートフォンを片手に世を渡る現代日本人に求められている、いや、「そうであることを強いられている力」でもあります。
私はあまりそういうのを好まないけれど、「センター」から「共通テスト」へ、時代は着実に変化しつつあるようです。そして諸君は、そんな過渡期にあって、まさにその荒波を漕ぎ渡らねばならぬ星のもとにあるらしい。
しかし、どうか忘れないでほしいのです。学問とは「情報処理」作業の類いではないのです。いくら世間のニーズが変わっても、膨大な情報のメールシュトロームが唸りを上げようとも、学問の為すべき事は変わらないのです。
深く〈読み〉、深く思考する営みだけは、決して変えてはならないのです。