かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(46) 助け船はドロ船? 後編

 一から十までつぶさに指示を出して課題なり何なりを達成させるということは、達成に至る別のプロセスや解法から目を背けさせることでもあるのです。そうなってくると「教えられる以外のこと」に対して可能な限り鈍感であることこそが、寧ろ「優等生」の条件となってしまう恐れがあるのです。

 「教える」とは断じて拘束することではありません。それは「矯正」というよりかは「誘導」とでも捉えた方が、間違いがなくてよいのではないかと私は思うのです。

 拘束的な指導を受ける子供とは、言うなれば指導者の言いなりになっていれば、自動的にゴールまで運ばれる「間違った快適さ」に慣れきるうちに、自分でゴールまで至る道筋を考える機会を失している子供なのです。たとい学校の成績が優等であろうと、何かを与えられない限りその子はどこまでも無力なのです。

 自分でものを考える力とは、外ならぬ「想像=創造する力」です。あらゆる社会的閉塞が顕在化してきたこの時代に必要なのは、そうした閉塞を破る新たな枠組みの創造であり、既成の概念を捏ね回すばかりの官僚的「優等生」では立ちゆかない時代が来ているのです。

 だからこそ、自律的にものを考える子供の育成を阻害する拘束的な指導は、よろしく排除されねばならないのです。

 これからの教育において必要なのは、思考停止を助長する「拘束」ではなく「誘導」なのです。つまるところ指導を行う側はもう少し呑気に、ただしある程度の目算とそれなりに周到な仕掛けだけを施しておいて、ゴールで待っておればよいのです。わが国の教員はちとお喋りが過ぎるのではないかしらん・・・。

 そしてゴールへ至る丘を登って来た子供に、「さて、君はどこをどんなふうに登ってきた?」と尋ねて、その試行錯誤のプロセスや、そこから彼自身が得られた「学び」を認め讃えてやることで、その子は自分で「学ぶ」ことについてはじめて自覚的になり得るのです。

 そのためにも、指導する側は「どうやって分からせるか」ではなく、寧ろ「どうやったら子供が自分で考えるか」にシフトしていく必要があるし、時には「どのようなノイズを敢えて課題に混入させるか」とか「考えざるを得ない環境作り」にこそ心を砕かなければならないのです。

 その指導者のひと言が、果たして子供達にとってのよき「助け船」であるか、それとも「ドロ船」であるか。私はこのドロ船がさっさと沈んでくれることを願ってやまないのです。