危うく最新式のチャイルドシートの購入に踏み切るところだった。
「我が子のため」というスローガンは、私をしてあらゆる快適さをどこまでも追求せしめるかに思われた。そしてこの野放図な「追求」そのものが、商品の絶えざるアップグレードと価値(差異)創出の絶えざる運動へと消費者を巻き込む資本主義の悪弊と極めて高い親和性を持っていたのである。
「この快適さを我が子にもたらしたくはないのか」と問われて、首を横に振る親はそうそういないだろう。そしていつの間にか「この快適さを捨てる代わりに、安価なものを購入する」のは、我が子に対して申し訳ないというロジックが成立してしまっていることに気づいた私は、一度頭を冷やすため、そこらをぶらぶらすることにした。
あの最新モデルは確かに、私が理想とした基準を全て満たしていたと言っても過言ではない。確かにその等級より下の少し安価なモデルも検分したが、ここぞという所のクッションが硬かったり、それなりの重量があったりして、私と妻の腰に相当のストレスを与えかねない不安要素があった。
だとするとやはり、最新モデルこそが子供に与える幸福が多い点において、最も相応しいのではないか。いや、しかし、それだと何だか私は負けた気がするのである。何に対して? 誰に? 企業に? それとも、消費社会に?
「我が子のため」ならば爪に火を点して溜めた金も、そんなに惜しい気がしないのは実に不思議である。だけれど、やっぱりそこに付け入られているような気がしてならないのは私だけなのだろうか。そんな思いを去来させつつ逍遙する売り場の隅。ふと落とした目線の先に値切り札の貼られたチャイルドシートがある。
いったいどうしたわけで、このチャイルドシートは脇へよけられているのか。何か欠陥でも見つかったのだろうか。どこもそんな風には見えないけれど、これは何か深き故のあるやらん。
と何気なしに見ていると、いよいよ不思議である。これは先ほどまで私がガン見していた某社の最新モデルとそっくりな代物だったのである。寧ろこちらの方が少し洒落ているようでありながら、確かにプライスのところに「二〇%オフ」と赤字で印字がされているのだ。