かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(49) 三つのミス Ⅲ

三、分かっているのに間違える

 私が思うに、もっともタチの悪い「間違い」がこの「分かってたのに間違えちゃった」というものです。巷ではこうした類いの「間違い」を指して「ケアレスミス」と呼ぶことが多いわけですが、正直なところ「ケアレス」に対するケアこそが、たいへん難しいのです。

 常習的に一つ、二つとケアレスミスをし続けるタイプの学習者が、おそらくどの教育現場にもあることかと思いますが、こうしたタイプの人々を「まぁ、内容は分かっているから大丈夫だろう」とか「そのうち、こんな間違いも減ってくるだろう」などと楽観視すべきではありません。

 ずばり「分かっているのに間違える」のは、能力的な問題なのです。人間誰しもうっかり間違える、ということは必ずあります。だからこそ私たちはセルフチェックをするのであり、人生を左右する大事な答案用紙を穴の空くほど見直しするのです。

 要はこの見直し、セルフチェックが出来るか否かの差が、「ケアレス」常習犯か否かの分水嶺になるのです。自分で当たっていると思って答案を書いておきながら、後で見直した時に肝心の間違いに気付けないのは、立派な能力不足に他なりません。だからこそ「ケアレスミス」は口先だけで「気をつけろ」と言ったところでなおらないのです。

 「ケアレス」を克服するために必要な能力とは、自分が書いたものを客観的に、メタ的に再考する力です。「なぜ自分がこの答えに至ったのか」「ここで次の式を導き出した根拠はなんだったか」「この書き方では違った解釈の余地がありそうだ」・・・こうした視点を獲得することで、学習者は正しく自分を疑い、より精緻なロジックを構築していくことができるのです。

 見直しが出来ない学習者は、決まって自分が書いたものをなぞるだけで、そこに疑義を呈することが出来ません。いわば一つの見方から抜け出すことがかなわない状態にあると言ってよいでしょう。

 指導者として出来ることは、そんな彼らの一つところに固執した視野をひょいと転じてやることであり、別解に次ぐ別解を、硬直化した解釈に次ぐ解釈を提示してやることに尽きるのです。
 

 以上述べてきた通り、「間違い」とは「学び」における大事なきっかけであり、理解度をはかる上での貴重なサンプルなのです。そして各自の「間違い方」とそこからの軌道修正のプロセスには、論理的思考能力の成熟具合が如実に反映されるのです。

 「単なる間違い」と軽視するなかれ。「間違い」の中にこそ豊かな「学び」があるのです。そうしてみると、ある種の思考停止を連れてくる「正解」とは、何だか味気なくも感じられるから不思議であります。