江戸の昔に「お直しだよ」と言ったら、それは「チェンジ」の謂いであったけれど、当代の公文でそう声がかかれば、子供達が採点する先生のところへ日参いたします。
あんまり何度も、のべつ通うようでは「あの若旦那、相当のぼせているようだから、ちょっと行って意見(指導)してやらないと」という具合になるわけですが、誰も彼もよくぞ投げ出さずにやっているもんだと感心させられています。
とかく申す私もかつては「お直し」に随分と泣かされた人間であります。中新田の旧教室では、「おっ、今日もお直しがないぜ。」なんて思っていると、次の回に横綱の懸賞金みたいなお直しの束を渡されて青くなることもしばしば。中にはツワモノもあって、累積に次ぐ累積で永久凍土みたくなったお直しと共生の道を選んだ人もあったくらいです。(よい子は決してマネをしないように。)
今になって思えば「お直し」こそが、まっとうな勉強が出来ているか否かを見分ける試金石であり、「お直し」がきちんと出来る生徒は自分でどこまでも進んでいくエンジンがついたようなものなのです。
それをいつまでも考えなしに、ちょちょいと小手先だけで直しているうちは、「なぜ間違えたのか」も分からなければ「正しいロジック」も組み上がっていないというものです。曰く、採点机に日参したり、すぐに消しゴムに手をかけるようではまだまだ半人前なのであります。
さて、この中で誰が一番先に一丁前になるものかしら。さっきから自分の書いた字とにらめっこを決め込んでいたあの子の目が光る。ささっと消しゴムを走らせて「ああ、そこそこ」、こじれていた数式がするすると解けて参ります。窓の外に降る春の雪のように。お後がよろしいようで。