かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

盆栽教育論(14) 樹と子供の個性 Ⅴ

○個体差について

 盆栽愛好家に好まれる樹種に「五葉松」というのがあります。黒松や赤松などのおなじみの針葉とはひと味違って、一芽につき約五枚の新葉が愛らしく、産地によっては葉の形や見かけがまるで異なるのが、愛好家を「ヌマ」へと誘い込む心憎いポイントです。

 しかもこの五葉松、同じ品種であっても「個体差」が著しく、「よれ葉」「長い葉」「短葉」・・・と自然のいたずらによって、同じ樹の種子から発芽する苗の「葉性(葉の性質)」は驚くほど違います。こうした「葉性」を管理によって変えることはまず以て不可能であり、文字通り生まれ持った「性根は変えられない」ということを実感させられる次第です。

 「短くて真っ直ぐな葉」が尊ばれる対極に「長くてよれている葉」があるように、「個体差」は子供のあいだにも動かしがたいものとしてあります。よく巷では、子供に対して「やれば出来る」だとか「努力はいつかきっと実を結ぶ」などといったフレーズが耳障りよくリフレインされていますが、およそこれは個人の能力差を無視している点において、きわめて危うく聞こえるのは私だけでしょうか。

 どう頑張っても、それが能力的にかなわない子供は必ず存在するのです。クラスの全員が出来る、なんてことはあり得ないのだし、大人も然り、ある分野において優れていても、別の分野になると全くのお手上げになってしまうことだってあるでしょう。そんな能力差に目を向けることもなく、明らかにキャパシティを越えた事を子供にさせたり、それを野放図に後援することは、寧ろ害悪といってよいかも知れません。

 それは生まれ持った個体差であるからして、如何ともしがたい事ではありますが、だからといって育てることを放擲してよいわけでは断じてありません。大事なのは彼らの「出来ないこと」を熟知した上で「得意なこと」や「出来ること」を一緒に捜してやることなのです。

 こう言うと実に当たり前のように感じられるやも知れませんが、これがなかなかどうして難しいのです。それはひとえに現今の教育というものが「学力」という一つの視点に凝り固まっているところに原因があるように思います。

 「学力的に劣っているから、もっと頑張って勉強しなさい」という物言いの陳腐さこそが、「出来ない」ことにだけ拘って「出来ること」に一切目を向けようとしてこなかった日本的教育の悪弊に他なりません。

 どう見ても教科書的な樹形から外れた樹を貰いうけた時、「その樹をどう生かしていくか」のヒントを星の数ほどある欠点に求めても仕方がありません。その樹のクセやユニークさを寧ろ肯定し、そこに「見どころ」を見いだしていくうちに、不思議と愛着も湧いてくるというもの。

 こうしてみると、個体差とは「○○の能力における」個体差であって、その差が人間の優劣を決めるはずがないのです。ある一つの能力の不足など、見方を換えれば百も千もある能力のうちの一項目に過ぎぬのやもしれません。

 こうした見方に精通しているという点においては、ためつすがめつ素材をなめ回すように観察してやまぬ盆栽愛好家に百日の長があるようです。