かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

弟子達に与ふる記(21) 自分とは何か 前編

 えらくベタで、自分だったらまずこんな見出しの話は読まない。そんな題を敢えて選んだのは、他でもない諸君に言っておきたいことがあるからなのです。

 「自分とは何か」。私には未だによく分かりません。これが本題の答えであって、それ以上でも以下でもないのです。ましてやこれは「啓蒙」などと大それた発想の話でもないので、あくまで諸君は「へぇ、そんなもんか。」ぐらいに読み流してくれると幸いであります。

 高校生活と、大学生活の大きな違いとしてあるのが、人間関係の多様化と言えるでしょう。これまでは同じ地元の顔なじみであったり、進学という同一の目的など、何だかんだ自分と同一性を担保した人々とのあいだで共同生活を送ってきたところが、急にそういった「しがらみ」から解放され変な浮遊感を覚えるのが、大学一年生の春というものではないでしょうか。

 それは私にとって、極めて居心地の悪い日々でありました。これまでのガリガリ亡者的な詰め込み式教育から解放された感こそひとしおであったものの、果たして自分がそこでどのように振る舞えばよいのか、どのように愉しめばよいのか、どのように同期と接すればよいのか、恥ずかしながら、私にはそういったことが皆目分からなかったのです。

 大学生ですから、もちろん学業に専念すればよいわけですが、望んだ大学でもなければ教育を勉強したかったわけでもなし、取り敢えず一人暮らしの孤城に立て籠もって、一日本を読み漁ってみたりする。しかし、その読んだ成果を誰に発表するというわけでもなし、ゼミに入ってガンガン研究を進める渦中にあるわけでもなし、そこにはやるせない孤独と、「今自分がやりたいのは、こういうことではない」という気分が日々渦を巻いていたのを、昨日のことのように覚えています。

 つまるところ、そんな浮遊感に根ざした焦燥は、これまで「そのまま進んでくればよかった」レールを外れたところにはじまるのやも知れません。自分が何をしたいか、自分がどんなふうにしたいか、というか迷い続ける自分とは何者であるのか・・・誠に遅ればせながら、私はそんなことを十八の年になってようやく痛感した次第なのです。