かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

弟子達に与うる記(22) 自分とは何か 後編

 自主ゼミというものに誘われて入ったのは、二年生の春でした。恥ずかしながら、それまでごく限られた数名の友人としか付き合いをしなかった私の人間関係が、にわかに賑やかになってきたのはこの辺りからでありました。

 教育学部と名の付くところに属しつつ、教育より寧ろ文学を愛する人々との邂逅は、ようやっと自室より他のところに居場所を見つけられた喜びを連れてきたものでした。とは言え、もとよりぼっち気質の私でありますから、そうやって同好の士と勉強することも面白いけれど、やっぱり一人で閉じこもっていることも好きなのです。

 先輩というより悪友も出来て、あれこれ馬鹿な計画を立てて、アホみたいに呑み歩いたりしたこともまた、この上なく愉しいものであったし、一方では実家に帰って羽を伸ばしたいと考えている自分もある。家族の前にあってのんべんだらりと過ごしている自分と、東京で同好の士と過ごしている自分と、一人で好き勝手過ごしている自分、そして地元の旧友と遊んでいる自分と・・・果たして「自分」とはかくも分裂しているものか、酒が覚めたある晩、やにわに恐ろしくなったのを覚えています。

 しかしながら、よくよく考えてみればそんなことは当たり前のことなのです。「確たる自分」とか「揺るぎない自己」なんて言葉を耳にすることがありますが、果たしてそんなものはよっぽどウサンクサイ幻想に過ぎぬのやも知れません。もしそんな人があったら、極めて付き合いづらいだろうし、仲良くなりたいとは思いません(笑)。

 出会う人の数だけ自分があって、各人との関係の蓄積の上にはじめて「自分」というものがそれぞれ立ち現れてくるものだと私は思うのです。ですから塾生諸君と三年、四年と長きにわたって「ああでもない、こうでもない」とやり合って来たのも、諸君との関係を通して見えてきた「自分」であって、その自分を立ち上げる諸君もまた、他の誰かとは取り替えのきかない「他者」なのです。

 「自分とは何か」、それは「自分」だけに固執していては絶対に見えるはずがないから、自分で分かるわけがないのです。「他者」があってこそ、はじめて「自分」という輪郭が薄らと象られるのであって、要はその都度の関係を通して見えてくる「自分」を「へぇ、こんな私もあるんだなぁ」なんて感じで呑気に受け容れていけばよい、と私は思うのです。

 その中にはもちろん、厭な自分もあるし、いいなと思える自分もあるでしょう。それは仕方のないことであって、少しくらい自分に幻滅することがあったとしても、また違う自分に、つまりは誰かに会いに行けばよいのです。必要なのは、一つの自分に、一つの幻想に固執しないことであって、これは学問的にも不可欠な要素であります。
 単一の視点、そして単一の自己はいつか硬直化し、未来の選択肢の幅をどこまでも狭いものにするでしょう。より柔軟な未来の方へ向かって、諸君にはいくつもある「自分」を渡り歩き、「他者」の声によく耳を傾け、じっくり最適解を選べるような人間になってほしいと思います。