かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

子宝日記(11) 玩具みたいな洗濯物

 ようやく春めいた青空に、玩具みたいな洗濯物が翻る。はて、こんなものを着る人間があるのだろうか。一枚、そしてまた一枚、水通しした産着を不思議な気持ちで干していく。

 しかしまぁ、よくもこんなに買ったものである。これを着る本人は、まだここに到着しておらぬというのに、腹の皮一枚向こうにあるわが子の存在を、もぬけの殻みたいな産着たちのゆらめきを通して感じている私がある。

 ハンガーもまた小さくて笑ってしまうほどである。あれほどぞんざいに自分の靴下を干してきたくせに、洗濯ばさみの大きさと変わらない靴下を丁重につるす私を、大きなお腹の妻が面白そうに眺めている。

 「玩具みたいだ。どれもこれも。」
 「こんなのが生まれてくるんだから、びっくりだね。」

 私はうんとも何とも言わないが、平気な顔をしてその実は心底驚いているのである。この靴下を履く足とは如何なるものにやあらむ。そんなものは、ともすれば何かの拍子にほろりと壊れてしまいやしないか。

 生まれたての赤ん坊は北極に落っことしても死なないと言うけれど、こんな足をぱたつかせる生物を誰がそんなところに落っことすものか。中には随分大きな足で生まれてきて、無事退院の日を迎えるあたりには、折角用意した靴下が「ドアノブに付けるあれ」みたいになった、という秀逸な比喩も伝え聞いた。

 果たして私の子供は、ちゃんとこの玩具みたいな靴下を履けるだろうか。私の子供である。自分の足に野暮ったいものを付けやがって、と怒り出すやもしれないが、どう頑張っても「あばあば」ぐらいしか言えないのだし、存分に不平のたけを述べたらよい。

 快にせよ不快にせよ、そうやって靴下をはめた足をぴこぴこ動かしていてくれさえすれば、きっと私は造作も無く喜ぶのだろうし、たといそれがあっという間にサイズアウトしても、お前の父はせっせと西松屋へ日参することだろう。

 玩具みたいな洗濯物が翻り、春まつ空にシャボンの香りを添える。私の子供は桃の節句に野郎の性をうけて産まれてくる予定である。