かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

子宝日記(12) 魔の夜 Ⅰ

 その日は雨の音で目が覚めた。

 あんまりしばらくぶりの雨だったので、最初私はそれが何の音であるのか分からなかった。樹々の眠り芽をそっとふるわせるかのように、薄曇りの空から降りてきた雨は、ようやくやってきた遅い春の先触れにも思われた。

 雨の後には洗ったような星空に、轟々と音を立てて風が巻いた。これが私にとっての「魔の夜」のはじまりである。

 ハヤクヤレ、いつやるのだ、もう産まれるぞ、と妻に脅しつけられた確定申告に、殊勝にもやや自発的に手を付けたのが夕方のこと。せっせと私がそんな作業に勤しみ始めた傍ら、妻は自分の申告に漏れがないか、まさに仕上げの作業に入っていた。

 ひとしきり目星が付いたころには夜が来ていた。さてこれからちょっと休んで、大河ドラマでも観ながら食事にしようと思っていた矢先、いつになく硬い顔をした妻がスマートフォンを片手に「ちょっと、ちょっと」とやるではないか。これは何かきっと教室か何かの仕事で何か好ましくない報せが届いたに違いない、とふんだ私は怖々妻の後について寝室へ下がる。

 産休に入って三週、つい先週あたりから加速度的に大きくなった腹であるが、産まれるのは三月の頭であるからして、別に赤ん坊がどうのという話が来るとは思いもよらなんだ夫に、妻が発した「ハスイしたかも。」はなかなかどうして壮絶な破壊力を以て響いた。

 「デンワ、デンワ、イシャニ、デンワ。」尋常小学校の読み本か、片言しか知らない外国人旅行者か。普段から子供たちに「ゆめゆめ単語なんぞで話してはイケナイ」などと説いているくせに、いざとなるとこんな体たらくである。

 妻が思い詰めた声で状況を説明すると、電話口の向こうからは「では、すぐに来て下さい。」との声が帰ってくるのが聞かれた。入院用に詰めたキャリーバッグを玄関先に運び出しつつ、夫はそっと自分の父母に「ハスイシタ」と伝える。(続く)