かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

些事放談「コモン・センス」

 とある教室のトイレが詰まった。

 詰まりの原因はトイレットペーパーの芯を流したことによるもので、悪質なイタズラをした張本人は即座に突き止められて事情聴取が行われた。保護者にも事の仔細を連絡すると、のっそり現れて子供のやらかした不始末を詫びる。

 トイレだけに、ここまではごく一般的な「流れ」であるけれど、その親の言い分がなかなかどうして心に引っかかる。

 「ウチでは芯のないトイレットペーパーを使っているものですから。」

 流石にザワついた。この説明で以て一体何人が「ああ、なるほどね」となるだろうか。芯の無いトイレットペーパーを使う家の子供は、芯の始末について何も知らなくてよいのだろうか。何ならその子は学校でも同じように、芯を便器に流しているのだろうか。

 そんな道理が通用するわけがない、と思いたいのは私だけなのだろうか。そんなことをしたら、およそ学校で問題になるだろうし、ましてや一年生にもなればトイレに芯を流してはいけないという基本ルールを、寧ろ「基本」というか「常識」ではあるけれど指導されているはずである。

 「トイレにペーパー以外を流さない。」これはこの世の中に生きる人々が恙なく生活を営むためにある「常識」の一つである。人と違って大いに奇抜なことをしたって良いけれど、誰かの権利を不当に侵害してはならない。少なくとも芯が流されたおかげで、教室に居合わせた他の子供達は家までトイレを我慢せねばならない羽目になったわけであり、中には「トイレが使えない」ことがプレッシャーになって、いつも通りの学習が出来なかった子だってあるやも知れない。

 子供に最低限の「常識」を身につけさせてやるのは親の責任であって、断じて学校や第三者がその任を負うものではない。「常識」を知らない子供を野放しにしておいて、人様や教育現場に多大なる負担と迷惑をかけておきながら、我関せずと飄々としている親こそ、恥を恥と感じない「破廉恥」漢であり、人と人とのあいだ、即ち人間(じんかん)を生きられない野蛮人に相違ない。

 もしその親にささやかな「恥」の意識があって、迷惑を被った人々の気持ちを慮る心があったなら、口が裂けてもあんなことは言えないはずである。