○軌道修正としてのキョウイク
確たる目的もなしに下手な針金を掛ければ樹は枯れます。それもそのはず、樹の生育にとって針金など自身の肥大化を抑制するファクターでしかなく、まさに盆栽愛好家のエゴ百%。
健康でのびのびとしていて、それこそ大自然の中にある樹をそのまま再現したいのならば、針金など巻かずに樹が任意で伸ばそうとする枝を、どんどん伸びろとばかりに放任しておけばよいのでしょうが、残念ながらそれは盆栽ではありません。「盆栽」とは鉢に入った瞬間から人為とは切り離せないのであって、人為によって鉢に移植して置きながら放任するのでは、およそアンバランスというものです。
こうして見ると、何だか「盆栽」と「教育」が実に似たり寄ったりなものに思われてくるのは私だけでしょうか。
『鉢に入った子供』でも述べたように、ただ自然にのびのび放任して育つわけではないのが「子供」というものであります。言語の習得も然り、学校や社会、及び家庭や様々な人間関係を生きなければならない彼らは、少なからずそうしたものに対応する「型」を身に付けていく必要があります。それがあるところでは「しつけ」と呼ばれ、あるところでは「教育」と呼ばれるわけで、もちろん子供達はのびのびと生きていながらも、必ず何かしらの軌道修正を被っているのです。
ですからこの点において、「盆栽の針金」と「子供の教育」は相似形なのです。若いうちに針金を巻いて「しつけ」を施す必要があることも、将来の姿を見据えた上で適切な「教育」を施していくところもまた、一方の教訓が一方のそれを反映する鏡となっているのです。
大事なのは、飽くまで「針金」及び「教育」の目的が軌道修正にあるのを忘れないことです。もしそれが彼らのキャパシティを超える無理な「ハリガネ」であった場合、そこに待っているのは不如意な結果よりほかの何ものでもないのです。