かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

子宝日記(21) 軟禁パパと難産ママ Ⅶ

 近いなぁ、イヤだなぁ。と思いつつ話の要所だけかいつまんで聞いていると、この婦長らしきおばさん、どうして聞き捨てならないことを言う。

 「今ね、ママはね、とっても頑張っているんだけど、ちょっと疲れちゃってるみたいなの。」急なため口への転調はよいとして、この手の切り出し方はおそらく何かを要求するものであることが察知される。

 「それでね、LINE、つなげる?」
 「はぁ。と申しますと。」
 「LINEで、テレビ電話、つなげる? それでね、ママとお話しをしてほしいの。パパの声を聞いたらきっとママも頑張れると思うから、ね?」

 この人は本気でそんなメールヒェンな展開を構想しているのだろうか。聞いてるうちから私は背中がむずむずしてしまって、一刻も早くこの場から遁走してしまいたくなっている。「パパ」と「ママ」の連呼もぞっとするし、「頑張る」とか「頑張れない」とか、そんな子供じみた文言をあたかも子供に諭すかのように述べたてるところも、どこか人を食っている感じがして、いよいよ愉快でない。

 そもそも陣痛で苦しんでいる妻は、本当にそんなことを求めているのだろうか。このおばさんは出産に関してはきっと海千山千の手練れなのだろうが、少なくとも私以上に私の妻という人間を知っているはずがない。妻だったら、あるいは私がもし妻の立場であったなら、分娩台でスマートフォンを渡されて、「さぁ、テレビ電話をするのだ。」「アラ、うれしいわ。」なんてことにはならないはずである。

 されどここで私が「諾。」と言わない限り、このおっかないおばさんは血走った目で懇々と私を諭し続けるだろうし、間近く差し出された右の手が無言のうちに妻のスマートフォンを要求している。

 「じゃあ、きっとママに渡しておくからね。パパ、よろしくお願いね! それで、私はこれから夜勤と交代して帰りますけれど、しっかり引き継いで帰りますから、じゃあ、パパ、しっかりお願いね!」帰んのかよ、と思ったけれどエッセンシャルワーカーの『働き方』は大切であるからしてよろしく尊重されねばならない。

 それがあたかも私の依り代であるかのように、妻のスマートフォンは分娩室へと運ばれて行った。