中学生に小学生までもが学校の机の上でパソコンを広げているという。
「パソコン」なんて表記する時点で、私の遅れ加減が知れるというものであるが、そんなものパーソナルコンピューターであれ、タブレットであれ、私にとってはどっちだってよい。
私のよく知る教育団体が、この頃にわかに「タブレット学習」だとか「ペーパーレス」などという文言を吹聴しはじめたのも、そんな時流に乗ったものと思われる。
「消しゴムのカスが出ない!」「採点の苦労がない!」「紙が嵩張らない!」・・・そんなモニターの感想を推進本部が実に得意げにプロパガンダしているけれど、それがどうしたと言うのだ。
資源の枯渇が騒がれる昨今である。確かにペーパーレスの流れは尊重すべきであろうが、「紙に自分の手で字を書く」というアナログの活動が絶対に必要な段階にある子供達から、わざわざその機会を取りあげるというのは、改革と銘打った改悪以外の何物でもない。
紙の手触り、筆圧、文字のバランス、規定の枠内に自分の字を収める訓練は、幼児期のみならず学齢期の児童に不可欠である。いくら素晴らしい性能のタッチペンを彼らに支給したとしても、一回きりの液晶画面を棒きれでなぞる作業に、学習の連続性が担保される筈がない。
ここが学習におけるディジタルの限界であり、アナログの復権が希求せられる領域にほかならない。そもそも守備範囲の違うものを、何かの一つ覚えのようにポンポンあれこれ適用してはならぬのである。
くだらない書類を大量に刷り、そんなものを眺めながら浅薄な議論を繰り広げている人間が、どうしてディジタルを使いこなせると言うのだろうか。
アナログだからこそ出来ることとは何か。「消しゴムで消す苦労」も「採点の苦労」も「自分が解いてきたプリントの山を眺めること」も、果たして全て無益なことだったのだろうか。