かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

蝸牛随筆(24) 善男善女のライブ Ⅱ

 「いま春の彼岸を迎え、日は真東から昇り、真西へ沈まんとす。西方は阿弥陀如来のおわす浄土にして・・・」の聞き慣れたフレーズを朗々と和尚さんが唱える。季節のうつろいをバシバシと感じる大事なところである。

 読経がはじまると、本堂の座り椅子に着座した私を含め法要の参加者たちが、経本を開いて「三帰礼文」を詠み上げ「光明真言」を経て、「般若心経」を一緒にお唱えする。この「般若心経」に至っては木魚が軽快なリズムを刻み、ついつい私も読経しつつ足元で拍子をとってしまう。いつかその意義と共に覚えようと思っているのだが、何分年に数回唱えるばかりであるからして、恥ずかしながらいまだにうろ覚えである。

 これはきっと、いつか自分が物故した際にも読まれるものである以上、送られる側の人間としてそこのところは最低限押さえておきたいものである。日本人は無宗教で、仏教は葬式のためのものなんて言い方が使い古されてきたわけであるが、今生と別れを告げるべきイベントにおいて、意味不明な呪文を唱えられてチンプンカンプンなうちに「引導」を渡されるというのは、あんまりさみしいではないか。

 私は長じるにつれて少しずつ「仏教」という現象に興味を持ち始めた人間である。おそらくその入りは、参列した葬儀において(おそらく曹洞宗だったかと記憶している)チン、ドン、シャーンのトリオ演奏が印象的だったことでなかったかしらん。宗派の違いでこれほどまでに構成が違うとは思ってもみなかったわけで、賑やかなオープニングと、三部合唱と化した読経の響きは、意外にも私をして「おっ」と興味の触手を伸長せしめたのである。

 キリスト教における教会音楽の歴史もさることながら、仏教だってその音楽性においては、どうして他の宗教に引けをとるものではない。思うに音楽は最も手っ取り早く「天国」であるとか「浄土」を「へぇ、こんな感じかぁ」と直覚させることが出来るのだろう。ご詠歌の響きや、かそけき鉦の響きに、遙か西方にあるという浄土を私は連想するわけであるが、読者諸氏はいかがであろうか。