かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(53) ベンキョウとブカツ Ⅲ

 勉強を通して「わかる」こととは、山を描くことに似ています。

 ある山の山容を描けと言われた人は、おそらく頂上の形からその稜線の様子、裾野の広がりに加えて、それに連なる山系や重なり合って襞を為す隣の山裾の様子まで正確に記憶して「ある山」の全体像を描写することでしょう。もしかすると中には、一方面のみならず南側、西側・・・と実に多角的にその特徴を捉えて描写する人もあるやも知れません。

 「わかる」とは一つの情報を丸覚えにしてしまうことではありません。私はそれをいま山に喩えましたが、試みにこれを「単元」とでも置き換えてみましょう。

 一つの単元を本当に「わかる」ためには、用語を丸暗記したり計算式をただ機械的に覚えて、そこに数字を当てはめるばかりではいけません。それは先の喩えで言うところの「山の一部しか描けていない」ことになるでしょう。特徴的な所だけ、つまりは点が取れるところだけをイイトコドリにした結果、その絵は衆人が見て「あの山だ!」と言えるものとほど遠いものとなるのは明らかです。

 既習の単元との連続性、覚えた法則性の応用と厳密な定義的理解が伴ってはじめて、私たちは論理的に物事を「わかる」のであり、俯瞰的に物事を捉えることが可能になるのです。そうしたゴールを目指すものこそが「勉強」であって、点取りのための近視眼的な「ベンキョウ」と一線を画すものに他ならないのです。そして同じことは、例の部活動においても言えるのではないでしょうか。

 とりあえず言われたメニューをこなし、とりあえずたくさん練習を頑張って、勝っても負けても一生懸命大会で頑張る・・・たとえ自分が最終的に補欠であっても・・・。ここに決定的に欠如しているのはメタ的な視点であります。「山を描くように」俯瞰的に物事を一望しうる視点を持つ生徒ならば、よもやそんな馬鹿馬鹿しいルーティーンを是とするような愚を冒すはずがないのです。(さもなくばよっぽどのマゾヒズム的な嗜好か、あるいはそれに類するシチュエーションによって思考停止状態にあることを志向しているとしか思えない。)

 言われたことを批判的に考察するよすがとてない思考停止的な「ブカツ」と、さて自分(たち)の能力向上には如何なる手立てがよいかしら、と自分の頭で考え自律的に活動する「部活」とを比べてみれば、後者の方に軍配が上がるのは明らかでありましょう。前者の「ブカツ」こそが学力劣化の温床であり、義務教育における癌なのです。

 「勉強」が出来る人は「部活」を愉しめる。「ベンキョウ」しか出来ない人は「ブカツ」に溺れる。この違いが分かる人ならば「部活」をやっても大丈夫でしょうが、そうでない人は何より先に最低限の「読み・書き・そろばん」を優先して身につけなくてはなりません。

 何せ勉学こそが学生の本分であって、部活動はその気晴らしに過ぎないのですから。