かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

蝸牛随筆(28) でんしすと Ⅲ


 スリッパが散乱していた。

 治療室の前で靴を脱ぎ、そこでスリッパに履き替える段になって、どういうわけかスリッパが皆がら靴脱ぎに墜落している。誰かここで派手に転倒でもしたのだろうか。そんな音はしなかったし、別段転倒の心配がありそうなご年配の姿もない。 仕方なしに落ちたスリッパを拾っていると、何やら向こうから機械の音がする。例の歯を削るドリルであろうか、はたまた十年も経っているからして何か恐ろしげなる最新鋭の機器が導入されたのかしらん、と少なからず恐々としてると、廊下の曲がり角から円盤形のお掃除ロボットが顔を出して、ゴンゴン角に自らの円みをぶっつけつつ此方へ向かって来るではないか。

 私はこのお掃除ロボットについてあまり良い噂を聞いたことがない。何なら私の知り合いは、このロボットが出た当初に実家で使っていたところ玄関の敷居を跨いで「家出」をされたのだと言う。きっとそのロボットは今もこの国のどこかで、寒山拾得よろしく路傍の塵を掃き清め続けていることだろうが、いま私に向かってきたお掃除ロボットもまた随分と野放図な軌道で好き勝手なそぞろ歩きを決め込んでいる。

 そいつが靴脱ぎの際のところまで来た。どうやら犯人はこいつで間違いないらしい。私が折角揃え直したスリッパを、再び下足置きに墜落させて得々としていやがるが、さしづめこのロボ公はこれで掃除をしているつもりなのであろう。

 「しっ、しっ、」とよそ行きの音量で追っ払う。半間ほどの入り口でこいつに往生されると、とてもではないがスリッパに履き替えることすらままならぬ。足でどかしてもよいのだろうが、流石に人様のロボットをそう足蹴にすることも憚られるから、スリッパ片手の暗闘がしばし続いた。

 「すみませーん」と廊下の奥から男の声がする。見れば中年の男性が申し訳なさそうに走り寄って来て、ロボットを捕まえて奥へと連れ去りぎわに「こちらへどうぞー」と私を案内する。「では、御免。」という塩梅で治療室に上がったけれど、もしや今し方の御仁がロボットの飼い主であって、誰やらんこの歯科医院の医院長先生だったのではあるまいか、そんなことを考えているうちに歯科助手のお姉さんがやってきて、私はついに診察台に身を横たえたのであった。