かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

蝸牛随筆(29) でんしすと Ⅳ


 さて、ここまで来たら観念しなければならない。ロボット掃除機のせいで心の平静が些か乱されたものの、大きめに切られた窓のおかげで室内は一様に明るい。これはきっと患者の不安を和らげる設計上の工夫であろう。さもなくば頭の上にタラバガニの如くに折りたたまれた恐ろしげな機器のアームや、トレイに並べられたシルバーの治療道具たちの無言の威圧感は、とてもじゃないが耐えられるものではない。

 脚や腕をどうこうと外科的に治療してもらうのと、歯科治療とはやはり恐ろしさの性質が違う。前者であれば自分が何をされているのか一目瞭然であるが、それが歯であるとそうはいかない。おそらく身体表面において最も無防備であるところをあんぐりと曝け出して、そこに様々の器具を突っ込まれて云々されるわけであるから、最早こちらとしては為す術がない。

 私の生命線である言葉が封殺され、あとは感覚とイメージの世界へと突入する。大正期の谷崎潤一郎に「病蓐の幻想」という歯痛を扱った作品があるけれど、やはりどうして口腔内の痛みや違和となると、それを対象化しうるのは己の触覚とイメージしかないのである。

 「何か、歯ブラシ以外でやっていることはありますか?」とお姉さんが尋ねるので「はい、爪楊枝を少々。」と真面目に答える。恥ずかしながら私の歯列は弥生人型の顎の弊害によって、お世辞にも良いとは言えない。中でも上の歯は生えてくるところに窮した結果、三本がトライアングル状に蟠って、ブラキオサウルスの臼歯みたようになっている。

 果たしてそこに歯ブラシがすんなりと入るはずもなく、歯間ブラシを突っ込むこともままならなければ、デンタルフロスをねじ込む余地とてない。それ故に私はいつの頃からか台所の爪楊枝を洗面台に据え置いて、伝統的な歯科衛生法を実践してきたのであるが、果たしてその成果や如何に。
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