かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

蝸牛随筆(34) でんしすと Ⅸ


 クリーニング。そうだ、私はそれをしてもらいたかったのである。それがために家人は私をして、早く歯医者へ行け、行けと促し続けたのである。

 元来、一日数杯はコーヒーか紅茶を喫しなければ気が済まない私は、いつのころからか自分の歯に色が付いてきたのを何とはなしに認識していたわけであるが、ある日鏡を見て驚愕せざるを得なかったことには、前歯の隣で奥まった歯が左右いづれも茶渋色に染めあげられていたのである。

 それはあたかも、常用するカップや湯飲みの底に沈着するのと全く似通った色味である。フレディ・マーキュリーほど大きくはないけれど、いい加減大きい前歯のために遠慮して奥まってしまったのが災いしたのであろう。なるほどここはブラシも届きづらい。発見した当初は「ヤップ、ヤップ」と掛け声を発しながらブラシでもって激しくスワイプしたものだが、いつしか諦めて気にもかけなくなってしまった。

 それは一つにコロナがはじまってマスクを着けるようになったせいでもあるが、磨いても磨いても成果のふるわぬが故に興味の対象から外れてしまったものと思われる。何せまだ白くて丈夫そうな前歯が健在であるから、この歯はどうせ陰に隠れてしまって目立つこともないだろう、くらいに考えていたのである。

 しかしながらつい先月、実家でコーヒーを喫していたところ母親が出し抜けに「そいつ、虫食ってんじゃない?」なんて恐ろしいことを申したせいで、動揺した私は噎せてコーヒーで溺れかけた。そんなことがあってから、茶渋染めの前歯の脇の歯はブラッシングの度に注意して見るようになっていたわけであるが、今日こうして歯医者に罷り越すにあたって緊張のあまり脳裏からすっぽ抜けていたのだった。

 もちろんその歯は、磨き残しを示す赤ピンクの色に染め上げられて、今にも山端に没しようとする夕陽のごとき趣であった。