かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(59) それを天秤にかけますか? Ⅲ

 「それを天秤にかけますか?」

 その子は基礎学力を全く放擲してプロのスポーツ選手にでもなるのでしょうか。百歩譲ってもしそんな夢が叶うにせよ、「読み・書き・計算」もままならないような人物が日の丸を背負ってアホ丸出しのインタビューに応じる姿を、私は同じ日本人として恥ずかしくて見ていられないでしょうし、論理的な省察もなしに行われるスポーツなどあるはずがないと信じてやみません。

 曰く、スポーツは考えなしの馬鹿では出来ないのであります。ですから、私から言わせればお勉強を放擲して打ち込んでもよいスポーツなど存在しないのであり、勉強とスポーツの二つが天秤にかけられることなど、そもそもあってはならないのです。

 今まで幾人が、制止を振り切って安易な方へとドロップアウトして行ったことでしょう。それはこの仕事をしていて一番イヤになる瞬間であり、その子の前途がいよいよ曖昧模糊たる迷妄の闇にかきくらされていく分かれ道なのです。

 今学習に感じている「苦しさ」は、きちんと今のうちに対処しておけば、ほんの一時の苦しさであり、これを放置して逃げることを行えば、それは一生ついてまわる「苦しさ」となって、未来を切り開いていく営みに暗雲を投げかけることでしょう。

 「読み・書き・計算」は人間らしく生きていくための、必要最低限の能力です。それはつまるところコミュニケーションの淵源である「言葉」の能力に直結するわけで、ここの不全こそが硬直化したヒトを生み出し、孤独を生み出し、その果てに人を人と思わぬような断絶と分断をもたらすのです。私が申していることは、果たして大袈裟でありましょうか。いやいや、テレビを見てもどこかへ出かけても、確かに孤独と分断の非知性的なムーブメントの足音は聞こえています。

 そもそもスポーツを安易な逃げ道に使うのも、スポーツを大いに愚弄しているし、そもそも価値観の違う勉強とスポーツを天秤にかけることもまた、その大本から間違っていると言わねばなりますまい。