かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

次は君の番だ! 【かたつむり通信 5号】

「教える」ということが、いかに危ういものであるか。この稼業を続けるうちに、それがもうお肌にバッチバチと痛いくらいに分かってきた今日この頃。

 「上手に教える」ことは比較的かんたんな作業であります。「ここは、分っかんねぇだろうなぁ」という難所に思いを致し、初学者の落っこちそうな穴の所在地を確かめ、要点を簡潔に説明して実に身ぎれいに終わることが出来れば「あの先生は教え方が上手だ」ということになる。

 なるほど、これは一つの技術であって、教える経験を真面目に積んでいれば出来るようになるものでしょう。ですが「上手に教える」ことが、学習者のよき理解、あるいは「学び」に直通するのか、という点についてはうーん、どうだろうねぇと言うより他にありません。

 人間が忘れることを一つの能力としている生き物である以上、まず大前提として、いくら「上手に教える」ことが出来ても、一週間ひと月と経つうちにその大半が忘れられる、と思っていた方がよい。首都圏の人々には想像出来ないことかも知れませんが、これは、学習習慣というものが根付かない地方や郡部においては、当たり前の現象なのです。

 それを見越した上で、学習者に「どうやって、何を教えるか」という問題と格闘して参った次第ですが、最近私は「教える」ことを最小限にする努力をスタートしました。これは一見すると学習塾としては元も子もない取り組みに見えるでしょうが、それは寧ろ「魚を捕って食わせる」よりも「魚の捕り方を教える」ことに近いのです。

 「上手に教える」ことが学習者の「分からない」ことに対する不安を払拭し、対処法を教授する方策であるとするならば、私がやっているのは「あえて落とし穴にドーンと嵌まらせてみる」荒療治のようなもの。そうして「落とし穴からの脱出方法」であるとか、「そもそもなぜ自分が落とし穴に嵌まったのか・・・トホホ」と考えさせているうち、私はニヤニヤしながら監督するわけで。

 ただし、ここで注意すべきは、勘違いの甚だしい教員がやる無策無能なグループ学習のように、ただ手放しで考えさせる悪手を打たないことです。あくまで既知の原理を材料として与えながら、自分でそれを論理の力によって組み合わせて使わせる。その使い方に無理がある時だけ、簡潔に指摘しながら軌道修正するのが私の役目。

 だから外野の私は「頭を使うのはここだ!」と精神論で応援しながら、ようやっと落とし穴から這い出した彼らに「よし、じゃあ次は私に今分かったことを教えておくれ。」とマジックを渡して選手交代。ホワイトボードの前に立って勇んでレクチャーを始める者があれば、途中で「アっ」と詰まって苦笑いする者もあります。私は「なんで? なんで?」と無邪気な質問を連発しては、彼らの「分からない」ポイントをとことんまで掘り下げる・・・。

 その過程で学習者が分かってくるものこそが、自分が直面する「分からない」の構造であり、「何が分からなかったのか」に気づかせると同時に「何を分かればよいのか」に向かわせるのが最大のねらいなのです。

 要は「分からない」との付き合い方を学ぶこと。彼らに教えさせてみるのは、自分の「分からない」をチェックする方法を身に着けてほしいからであり、そこから自力で這い出るにはどうすべきかをこそ考えてほしいからであります。

 「上手に教える」とは「分からない」を巧妙に回避してしまう危険に満ちています。だからあえて「ヘタに教えない」。「分からない」に出会って慌てふためいて、時にはケガをしながら「分かるためにどうするか」を考えていく。それを監督する私がなすべきは、彼らが大ケガ(歪んだ認知)だけしないように見守ることなのです。

 さて、チュートリアルはここまで! 勉強そして学問は、広大なオープンワールドのゲームみないなもの。学校の教科学習は、まだまだ初心者向けゾーンに過ぎず、レアなアイテムやドロップはありませんぞ。塾生諸君、次は君たちが自分の足で探索をはじめる番ですよ。