かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(25) エンジンが付いた子 前編

 教育の根幹は「教える」ことでしょうか?

 それは違います。

 「教える」ということは、「学ぶ」ことに比べるとはるかに非効率的な手段と言わざるを得ません。ですから「子供達にたくさんのことを教えたい!」と希望に燃える教員ほど、目的と手段を取り違えたヤバめな存在なのだと私は常々思っているのです。

 「教える」というのは一方通行的な手段に過ぎません。「これはこうだからこう!」と微に入り細にわたって教えても、それが額面通り受け取られるかどうかも心許ないし、それがきちんと使える知識として個々の内に定着するかどうかすら分からないのです。寧ろ、時に「教える」ことはクスリになることもあれば毒にだってなるのです。

 考えてもみてください。真っ白な状態の子供に、恣意的に選択されたひとつのルールを「教える」ことは、その子供をひとつの鋳型に嵌めて矯正することに外なりません。

 自由奔放に伸長している若木を盆栽に仕立てる折り、針金をグルグル巻いてセオリーに外れた枝を容赦なく落としていくように、それは型に嵌められる本人に、少なからざるストレスと負担をもたらします。

 それに対して「学ぶ」こととは、自ら進んで知識を取り入れることを意味しています。「知りたい」「ゆかしい」という気持ちを杖として自発的に知識を取り入れることが「学ぶ」ということであり、習熟の面から言ってもただ一方的に教えられたのとは雲泥の差が出るものです。

 大きな目標を持っていたり、何かしらの理由で学習に対するモチベーションが高い人と、惰性で授業に出ているような人間とでは、比べるまでもなく前者に軍配があがることでしょう。

 前のめりになって「学ぼう」とする人間と、ぐだぐだ「教えられる」一方の人間とで学力の二極化が進んでいるのが、現在の学校教育の現場に外なりません。中間層がいない、中間層の進学先がないというのも、もしかするとそんな区分けの為せるところなのやも知れません。