かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

定点観測(54) ひょっとしてお知り合い

 ふとした拍子に子供達の知られざる人間関係を垣間見ることがある。

 教室ではわきめもふらずに学習に打ち込んで、自分の課題が終わるが早いか颯爽と帰宅して行く子供達。そんなものだから、同級生を二人同じ机に並べても、まさに勤勉なサラリーマンのように自分の仕事をこなすことに集中するあまり、およそ隣り合った子に興味を示す様子がない。

 ハテ、別なクラスなのか二人とも面識がないのかしらん。それでもせめて、もうちょっと同級生のよしみを発揮して、二人してニヤついたりなんかしていいものではないか。小学生とはかくも真面目人間であったか、と愕然とする大人は子供の観察ばかりしていないで、もう少し自分の仕事に集中すべきである。

 ガタリ、と席を立つ音が聞こえる。二人並べた席のあの子が本日の学習を終えたらしい。そつなく勉強道具を片付けて、ファイルを返しに来る。宿題を受け取ってジャンパーを着ている。すると残された方の少年がチラッと顔を上げた拍子に、彼らの視線がようやくぶつかった。

 「じゃあね、先帰るから。」「うん、また明日学校でね。」と爽やかな微笑みを交換しつつ、どうやらクラスメートだったらしい二人が、大人顔負けの「お先に」をやっている。どこまでも末恐ろしい子供達である。

 全くの他人同士と思いきや、学校ではバリバリのお友達であるにも拘わらず、「公文は公文」という黙契を成立させて、よろしくやっているのだ。

 大正期の谷崎潤一郎に『少年の王国』という好短篇があるけれど、子供達の社会というものは大人が思っているよりも、よっぽど精緻な秩序で回っているものなのやもしれない。かつて私もまたその一員だったはずなのだけれど、私はそれを忘れてしまって久しいようだ。

蝸牛随筆(16) チャイルドシート綺譚Ⅵ

 やって来た店員に尋ねると、これは「型落ち品」とのこと。

 つまりは最新モデルが出たことによって、商戦における第一線から退役を余儀なくされた商品であり、驚くべきことに機能的な面では最新モデルとおよそ変わるところがない、と言うのである。何ならこちらの生地の方が、ふんわりとして肌触りが心地よくもあるし、同一機能な上に「二〇%オフ」ということは、最早好いところしか残って居らぬではないか。

 それは目覚ましい発見であった。最新式を買うことに並々ならぬ抵抗と「負けた感じ」を禁じえなんだ私にとって、「型落ち品」とは天助に相違なかったのである。これならば折れかけていたわが自尊心にも何とか面子が立つし、最新モデルによって消費者を惑乱せしむる資本主義的悪弊に対しても、いっぱしの抵抗を示したことになるのではないか。

 マシマシの機能は「我が子のために」喜んで頂戴するが、私は「最新モデル」は欲しくない。よし、これである。先ほどから店員が「残り一点しかないです!」とわが決断を煽ってくるのは少々いただけないものの、私の腹は既にして決まっている。満を持して「これをいただきます。」と伝えるや、在庫確保に店員が真一文字に倉庫へ飛んでいく。

 「ありました! 大丈夫でした。」との報せにひとまず安心したものの、次の店員の台詞に私は肝を冷やしたのである。

 「お車はISOFIXご対応の車種ですよね?」私はすっかり失念していたのである。「ISO」某とはそもそも、取り付けやすさに対して付けられるお墨付きくらいに考えていた私は、自分の調べ学習の甘さを呪わずには居られなかった。店員の話によれば、今時の車はだいたい全て「ISOFIX」対応車であるからして、「まさか、そんな古い骨董品みたいなお車には乗ってないよね?」的なノリなのである。

 「あはは、ええ、まぁ。ねェ。」と相槌うちうち対応車種表をめくる私は変な汗を掻いている。なにせ『平成一四年製』という項目自体、その小冊子には記載がされていないのであり、ということは購入を決定した「ISOFIX専用」と記載されたチャイルドシートの搭載が適わぬということであるらしい。

 かくして私は、「我が子のために」次は車を買わねばならぬことになったのである。まことに希有なことになった。

蝸牛随筆(15) チャイルドシート綺譚Ⅴ

 危うく最新式のチャイルドシートの購入に踏み切るところだった。

 「我が子のため」というスローガンは、私をしてあらゆる快適さをどこまでも追求せしめるかに思われた。そしてこの野放図な「追求」そのものが、商品の絶えざるアップグレードと価値(差異)創出の絶えざる運動へと消費者を巻き込む資本主義の悪弊と極めて高い親和性を持っていたのである。

 「この快適さを我が子にもたらしたくはないのか」と問われて、首を横に振る親はそうそういないだろう。そしていつの間にか「この快適さを捨てる代わりに、安価なものを購入する」のは、我が子に対して申し訳ないというロジックが成立してしまっていることに気づいた私は、一度頭を冷やすため、そこらをぶらぶらすることにした。

 あの最新モデルは確かに、私が理想とした基準を全て満たしていたと言っても過言ではない。確かにその等級より下の少し安価なモデルも検分したが、ここぞという所のクッションが硬かったり、それなりの重量があったりして、私と妻の腰に相当のストレスを与えかねない不安要素があった。

 だとするとやはり、最新モデルこそが子供に与える幸福が多い点において、最も相応しいのではないか。いや、しかし、それだと何だか私は負けた気がするのである。何に対して? 誰に? 企業に? それとも、消費社会に?

 「我が子のため」ならば爪に火を点して溜めた金も、そんなに惜しい気がしないのは実に不思議である。だけれど、やっぱりそこに付け入られているような気がしてならないのは私だけなのだろうか。そんな思いを去来させつつ逍遙する売り場の隅。ふと落とした目線の先に値切り札の貼られたチャイルドシートがある。

 いったいどうしたわけで、このチャイルドシートは脇へよけられているのか。何か欠陥でも見つかったのだろうか。どこもそんな風には見えないけれど、これは何か深き故のあるやらん。

 と何気なしに見ていると、いよいよ不思議である。これは先ほどまで私がガン見していた某社の最新モデルとそっくりな代物だったのである。寧ろこちらの方が少し洒落ているようでありながら、確かにプライスのところに「二〇%オフ」と赤字で印字がされているのだ。

蝸牛随筆(14) チャイルドシート綺譚Ⅳ

 「これはエッグ・クッションというやつですね」「まぁ、ご存知なんですね!」

 店員の説明を拝聴しつつ、覚え立ての横文字を言ってみたところ、思いがけなく誉められた照れ隠しに「ええ、まぁ」なんて間の抜けた返事をしながら頭を掻いている。

 それもそのはず、既に型録及びチャイルドシート売り場を一度丹念に見て回ったのであるから、そのくらいの小手先の知識の一つや二つは漸く頭に入ってきた。あとは現物をよく観察して「エッグ・クッション」がどれほどの代物であるのか、「新生児対応型」と「義務化年齢全対応型」との商品比較、そして例の「ISO」某が簡便さを如何に左右するものであるかについて検討を加えていく必要がある。

 私たちの隣で同じくチャイルドシートを検討しに来た夫妻の話が聞こえてきたのだが、彼らは何とわざわざ隣県からまかりこしたらしい。これもやはり私と同様に「現物を見なければ分からぬ」、という強い思いの表れなのであろう。何せ、我が子に贈るものであるからして、これをネットのレビューだけを頼りとして決定してしまうのは、返す返すも味気のない話である。

 心強い味方を得たような気がして、早速売り場にあった新生児サイズの人形を連れてきて、次から次とチャイルドシートに乗せてみる。ベルトが引き出し難いものもあれば、シートがリクライニングしてすんなりと定位置に赤子をセット出来るものもある。首の安定がよく担保されるものもあれば、少々心許ないものもある。

 中でも面白かったのは、赤ん坊の涎が染みるだろう肩周りのベルトのアタッチメントが外れるようになっていて、これを洗濯して清潔に保つことが出来るという機能であった。微に入り細に入り、ここまで赤子のあれこれを塩梅しておれば、なるほど機能だってマシマシになるし、それにかかる開発経費も嵩んでくるに違いない。「金額=性能=幸福」という等式は、あながち間違いではないらしい・・・。

 さはれ、じゃあこれもこれもと我が子のために機能をマシマシにしていては、結局の所私は最新モデルの八万云千円の商品を買うことになりかねない。ここへ来て私はやっと、「我が子のため」というキーワードの恐るべき魔力に気がついたのであった。
 

教育雑記帳(46) 助け船はドロ船? 後編

 一から十までつぶさに指示を出して課題なり何なりを達成させるということは、達成に至る別のプロセスや解法から目を背けさせることでもあるのです。そうなってくると「教えられる以外のこと」に対して可能な限り鈍感であることこそが、寧ろ「優等生」の条件となってしまう恐れがあるのです。

 「教える」とは断じて拘束することではありません。それは「矯正」というよりかは「誘導」とでも捉えた方が、間違いがなくてよいのではないかと私は思うのです。

 拘束的な指導を受ける子供とは、言うなれば指導者の言いなりになっていれば、自動的にゴールまで運ばれる「間違った快適さ」に慣れきるうちに、自分でゴールまで至る道筋を考える機会を失している子供なのです。たとい学校の成績が優等であろうと、何かを与えられない限りその子はどこまでも無力なのです。

 自分でものを考える力とは、外ならぬ「想像=創造する力」です。あらゆる社会的閉塞が顕在化してきたこの時代に必要なのは、そうした閉塞を破る新たな枠組みの創造であり、既成の概念を捏ね回すばかりの官僚的「優等生」では立ちゆかない時代が来ているのです。

 だからこそ、自律的にものを考える子供の育成を阻害する拘束的な指導は、よろしく排除されねばならないのです。

 これからの教育において必要なのは、思考停止を助長する「拘束」ではなく「誘導」なのです。つまるところ指導を行う側はもう少し呑気に、ただしある程度の目算とそれなりに周到な仕掛けだけを施しておいて、ゴールで待っておればよいのです。わが国の教員はちとお喋りが過ぎるのではないかしらん・・・。

 そしてゴールへ至る丘を登って来た子供に、「さて、君はどこをどんなふうに登ってきた?」と尋ねて、その試行錯誤のプロセスや、そこから彼自身が得られた「学び」を認め讃えてやることで、その子は自分で「学ぶ」ことについてはじめて自覚的になり得るのです。

 そのためにも、指導する側は「どうやって分からせるか」ではなく、寧ろ「どうやったら子供が自分で考えるか」にシフトしていく必要があるし、時には「どのようなノイズを敢えて課題に混入させるか」とか「考えざるを得ない環境作り」にこそ心を砕かなければならないのです。

 その指導者のひと言が、果たして子供達にとってのよき「助け船」であるか、それとも「ドロ船」であるか。私はこのドロ船がさっさと沈んでくれることを願ってやまないのです。

教育雑記帳(45) 助け船はドロ船? 前編

  学校の先生ごっこと称して、子供が教員と生徒役をかわりばんこに演じているのを見たことがあります。

 そこでは決まって教員役の子供が「○○ちゃん、ちゃんとしなさい!」と檄を飛ばしていたり、「ここは、こう! 次にこうやって、こうしなさい!」と、普段言われていることなのか、それともデフォルメして演じているのか分かりませんが、つい苦笑いしつつ眺めてしまいます。

 やはり特徴的であるのは何と言っても、その「教え方」であります。それはあたかも箇条書きのように、「これをしなさい」「あれをしなさい」「次はこうしなさい」と、一から十まで全ての指示が言語化されていて、その指示をうける生徒役の子供達はにやにやしながら、それに従ったり従わなかったりしています。

 まことにそれは微笑ましい光景でありますが、彼らの目に「教える」ということが、こんな風に映っているのだとしたら、それはそれでちょっと恐ろしいような、残念なような気もするのです。

 実際のところ世の中には、そうした一から十まで的な「教え方」が横行している部分があると言わねばなりません。何せ私の近場にも、そうした指導を以て子供に相対する人間がいるわけですが、これはなかなかどうして、ごっこ遊びのように微笑ましいものではありません。

 言うなればそれは、指示によって子供を雁字搦めに拘束するやり方に他なりません。確かに一から十までみっちりと指示を受けた子供は、それなりに計画された指導の行程を脇道に逸れることなく辿ることができるでしょう。

 それはもしかすると、指導されること「のみ」に集中し得るという点において効果的なのかもしれませんが、見方を換えればこれは、子供達にある種の「思考停止」を強いるやり方とも取れるのではないか、と私は危惧しているのです。

 助け船のつもりで出されたその指導は、ややもすると今にも沈みかけている「ドロ船」やも知れない・・・。言うまでもなくそれは人災に他なりません。

katatumurinoblog.hatenablog.com

蝸牛随筆(13) チャイルドシート綺譚Ⅲ

 自分が欲しいものを人に贈る。

 これは私が信条とするところのものである。まぁ、それが明らかな独りよがりにならない範囲であれば、たいがいは喜んでもらえるはずである、と自負している。

 チャイルドシートを選定するにあたって、私がとるべき第三の道は、まさにこれである。つまりは自分が座りたいようなシートを我が子に贈る、という極めてシンプルな方策である。

 そのためにはチャイルドシートの現物が売られているところへ出向いて、自分の目と手触りと、その使い勝手を存分に検分する必要が生じてくる。ただ一つ問題は、実際に私が座ってみるわけにはいかないという点であって、ここのところは多分に想像力によって補う必要が生じる点であろう。

 さて、そうと決まれば己の思い浮かべ得る理想的なシートを心に描いてみるにしくはない。ここで考えなしにやおら「西松屋」に出発しても、あの高いラックの下をうろうろと徘徊して終わる羽目になるのが目に見えている。それこそ迷妄の海に沈む亡者的な消費者の末路と言うべき痴態に外ならない。

 何はともあれ、まず「シート」と名の付く以上は、その座り心地から考えをはじめてみるべきであろう。これを左右するのは、平時のドライブにおいても痛感させられるクッションの如何である。それは沈み込み過ぎても、硬すぎてもあまり好いことがないのは経験上よく存じている。即ちその硬いと柔らかいの中道を行くクッションが理想的であるはずだが、いまだ座らない頸をしっかりと支える仕掛けもまたきちんと充実していてもらわなくては困る。

 そして次なるは対応する年齢の幅という問題であるが、そもそもチャイルドシートは何歳まで義務化されているのだろうか。威張って申し上げることではないけれど私は分からないので、これは後でこっそり調べることにして、とりあえず今のところはいい加減大きくなっても子供が窮屈しないようなのを選ばなければなるまい。

 そして最後は使い勝手の問題である。もちろんこれは使い勝手がよいことに越したことはないのだが、薄々分かってきたのはこの使い勝手の如何に例の「ISO」某が絡んでくるということ。早速わがチャイルドシート選びに雷雲が湧き出して、迷妄の海を行く木の葉の如きわが小舟の旅路を、うねりはじめた波浪の渦中へと投げ込むかに思われた。