かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

盆・歳時記 樹形篇(三)

○根上がり

 「え? 掘るンすか? オレの足元を? 何で? バカなんすか? そこは幹じゃないっすよ。根っこっすよ?」

 という樹の声が聞こえて来そうである。愛好家のヘンな愛情によって掘じくり返された根は、空気に触れて硬くなる。

 「そりゃ、そうっすよ。あんなとこ掘られた日にはグラグラしちゃって、リアルに『立ちゆかない』っすよ。え? まさか、また掘るんすか? あんたもマジ懲りないっすね? でも、せっかくやんなら、もうちょい色気が出るようにやってくださいヨ?」

○根連なり

 それは深い森に横たわる老樹に宿った、新たな生命の兆しであろうか。

 朽ちて倒れた樹は、死してなお森の貴重なる一部なのだ。くずおれた幹からすっくと立ち上がった若木たちの、やわらかな緑が伸び上がる。

 そんな感じを出したいなぁ、と思ってつくるのだけど、それがなかなか難しい。よし、ここはひとつ酒の力をお借りして、鉢の中の深い(?)森に分け入ってみることにしようではないか。

○株立ち

 我らみんなで一つの樹。それが多幹樹形。

 それでもよく観て樹勢のバランスを取ってやらないと、すぐに内ゲバがはじまって枝枯れを起こす。樹木の生存戦略は、弱い枝に容赦をしないのだ。

 なかなか油断ならない樹形であるが、そんなタカンな彼らを教え導き、上手く付き合うことが出来たら愛好家として、いや教育者としてけっこう自信をもってよいのじゃないかしら。

 「えー、木という字は、枝と枝がこう、一本の幹を支え合って・・・」

塾生心得「文章問題がちょっと・・・」後編

 文章問題でつまづく生徒に顕著なのは、彼らが非常に近視眼的な考え方で、文章題にアクセスする傾向であります。

 「書いてあった数を単に足せばイイ」とか「これは一次方程式の問題だから必ずそれで解かなければならない」なんて了見であるから迷子になるのであって、要するに全くもって問題が読めていないのです。

 きちんと問題が「読めて」、広い視野で手段となる数式をチョイス出来るようになれば、「こんなの連立使った方がカンタンじゃね?」という気づきも容易になるでしょう。問題を正確に把握することが出来れば、それを柔軟に読み替えた上で数式を適用することだって朝飯前なのです。

 私はこの『塾生心得』において、いつも最終的に何でもかんでも国語の話にしてしまいますが、ロジックをもとに記号を操るという点において、数学も国語もそれほど径庭はないのです。

 ですから私は「文章問題がちょっと・・・」という生徒にはいつも、国語の読解問題をコンスタントに課しながら、「数式を読む」ということをしてもらいます。

 なぜこの問いについて、この数式が成り立つのか。式のこの部分は題意の何を表現したものであるのか。さながら読解問題の解説でもするようにして、数学の学習は進んでいくのです。

 やはり目指すべきは、一にも二にも国語数学教科を問わない「読解力」の定着なのです。この力が備わりさへすれば、あとは私なぞぶっちゃけ居ても居なくてもよいのです。

 なぜならそんな人々は、自分で「読めて」かつ「学べる」人々であるからです。そこにどうして私なぞが差し出がましく教える必要があるでしょうか。

塾生心得「文章問題がちょっと・・・」前編

 「ウチの子、計算はちゃんと出来るんですけど、文章問題がニガテなんです。」というお母さん達からのSOSを受けることがよくあります。

 それでもバチあたりな私は、そんな話を半分聞き流しながら「ああ、この子は国語がニガテなんだなぁ」と、一人納得して「算数の話はもういいから、国語の話をしたいなぁ」と思ったりしています。

 話を聞かない無礼なヤツにも見えるでしょうが、これは何も的を外れた感慨ではないのです。

 もし塾生のみなさんが私の立場だったとして、「文章問題がちょっと・・・」的な相談をされたとしたら、どのように対応してあげるでしょうか?

 なるほど、文章題のパターンを全て解説して網羅することによってニガテを克服する。流石は勉強熱心なわが塾生だけあって、なかなか理にかなっています。

 しかし、そこには一つ問題が存在するのです。仮にその生徒が熱心な指導の甲斐あって、その単元の文章題の攻略に成功したとしましょう。テストの点は上がり、お母さんもニンマリすることでしょうが、その先はどうなるでしょう?

 別の単元の学習がはじまり、またもや応用問題に文章題が混じりはじめた時、その生徒は再び、お手上げ状態になってしまうのではないでしょうか。

 まぁ、その都度テッテーテキに教えるというなら構いませんが、結局のところその生徒は「教わること」にばかり頼るようになって、いつまで経っても自力で「学ぼう」とする立場にシフトすることはないでしょう。

 大事なのは国語の力、「読解力」なのです。文章題とはそもそも、文中から求められていることを読み取り、その求めに応じて数式を選択し適用する作業であって、決して「足し算の問題だから」とか「一次方程式を使わなくちゃいけないから」という目的と手段を取り違えた、本末転倒な頭で取り組んではならないのです。

些事放談「問題があるってことは」

 教室に来てプリントを解いている子供を見ていると、何だか羨ましくなることがあります。

 一つ解いたらまた次の問題、そしてまたそれをクリアすると次のステップへ。とにかく公文のプリントをわしわし解いている間は、他のことを考えることなく目の前の問題に没頭していられる。

 これはたいへんに幸せなことだと私は思うのです。

 決して安くはない月謝を払ってもらい、こうして教室に通わせてもらっていること自体すでに幸せですが、彼らは取り組むべき「問題が与えられている」幸福もまた享受しているわけです。

 ここで言う「問題」は、まず課題と言い換えてもいいでしょう。与えられたものをきちんとこなせば、そこに何らかのレベルアップが見込まれるのが課題というもの。

 だからこそ子供達は、とにかく毎日コンスタントに、四の五の言わず公文のプリントを解けばOKなのであり、それによって読み書き計算の基礎学力が身につくのです。

 オトナの私もそんな風に、何かしら与えられたメソッドをわしわしこなすことで、自然と論文のアイディアであったり、書き物のネタが降りてくりゃいいのに、とつい仕事の手を止めて夢想してみたり、してみなかったり。

 つまるところ、オトナになるということは、課題が与えられる立場から、寧ろ課題を自分で探しにいかなければならない立場へ移行することなのやもしれません。

 ただ、これは万人のオトナに言えることでもないようです。なぜなら「課題」なんてものは、ぶっちゃけ無くても生きていけるわけですし、時にそれは生きている上で邪魔くさく感じることだってあるでしょう。

 しかしながらそこで課題を探すことを全く止めてしまってはヤバイぞ、と私の直感がざわざわするのです。挑むべき課題もなく、ただ日々を惰性で過ごして同じサイクルを繰り返す、なんていうのは実に省エネでよいかもしれませんが、そんなことをしていたら将来AIによって仕事を奪われても文句が言えません。

 それぞれがそれぞれ異なる「課題」を見いだし、それに対して提出された個々のアンサーこそが、多様性と呼ぶべきものなのではないでしょうか。それが社会に一石を投じたり、はたまたひょんな拍子に還元されたりするからこそ、そこにわれわれの進むべき新たな活路が開かれるのです。

 必要とされるのは「課題」を自分で探してゆけるオトナを一人でも多く輩出するための教育の充実であります。国際競争力なんて言う前に、もっともっと根っこの部分を補強しておかなくては、早晩この国は深刻なガス欠に陥ることでしょう。

 と、私は本日自分に課した「課題」に筆を擱いて、教室へ出る支度をはじめることにしましょう。
 
 

私と公文式(26) ひとりで行くもん

 ちょっと前のCMで「くもん行くもん♪」というのがありましたが、あれは「やってて良かった」に次ぐ良作でありました。

 江戸の大昔ですと「○○の通いはじめは傘と下駄」というキャッチーなフレーズがあったわけですが、「公文式、通いはじめは親と子と」一緒に手などつないでやってくるのは、実に微笑ましい光景です。

 それでもいい加減大きくなると、流石に親を引っ張って来る子供も珍しいもので「ひとりで行くもん!」という塩梅になるわけでありまして。

 「ちょっとあんだ、なにに乗って公文に行くの!」「ボクは今日これで行くって決めたんだおん。」「何を馬鹿な事言ってんの!」

 と玄関先で揉める親子。強情を張っている息子が手をかけているのは、昨日買ってもらった「ホッピング」。

 公文バックをぶら下げて、いざビヨンビヨン教室へ向けて出発しようとした矢先に止められたものだから面白くありません。

 「そんなので行ったって、大変だから止めらいん!」「だいじょぶだ、教室の外に立てかけて駐めるから」「そういう問題でねぇでば!」

 自転車でツイーっと自分で公文に通えるようになった感動が薄れて来た頃、ふとした拍子に「これなら!」と閃いたのが事の発端でありました。

 チャリで公文に通う同級は数あれど、いまだかつてホッピングでビヨンビヨンして通う奴の話は聞いたことがない。そこで自分がホッピング通室の先駆けになって、〈ホッピング使いの〉なんて二つ名を貰ったりしたら、なかなかどうしてイカすのじゃないかしら、こんなハッピーな動機こそが時に子供を素敵に面白い行動に駆り立てるのです。

 制止を振り切って出発したは良いものの、ビヨンビヨンしてても全然前に進まないのなんの・・・。カバンの中で筆箱はぐっちゃぐちゃになるし、結局ホッピング通室は、開始一〇メートルで頓挫したのでした。

 生徒諸君「ひとりで行くもん」は良いけれど、ひとつだけ忠告しておきましょう。ホッピングで公文に通うのは止したほうがいい。

盆・歳時記 樹形篇(二)

○直幹

 真っ直ぐに、ひたすら真っ直ぐ空をさして伸び上がるその幹に、曲(きょく)なんて小細工は無用である。

 え? 幼稚園児の描いた樹にそっくり? カンタンにつくれそう?

 確かに、言われてみればその通りであるけれど、実のところ「曲の入った樹」よりも「曲がりのない樹」をつくる方がずっと骨が折れる。人間世界を見回したって、どちらがレアであるかは一目瞭然である。
 
○吹き流し

 そこにはいつも風が吹いている。のべつ吹いている。飽きもせずに吹いているものだから、枝々がみんな風に靡いてしまって、そんなフォルムになっている。

 それは山巓に生うるが故の宿命であろうが、愛好家という物好きは、それをわざわざ自分の鉢で再現しようとする。

 彼らの棚場で、展示会の一席でふと風を感じたら、ぜひともその一樹に問うて見るといい。

 「ナニしてるって、見りゃわかるでしょう、ごらんの通り風に吹かれてるんですよ!」

文人

 明治、大正期の文人墨客に愛されたのがこれ。ひょろりひょろりと立ち上がる先に落ち枝があって、とぼけたような樹冠部がある。そしてそのまた先にお月さんが引っかかっていたら百点の風情である。

 山水の世界からそのまんま拝借してきた樹形であるから、もちろんこんな樹は自然界に存在しない。

 不自然さしかないのだけれど、何だか無性にゆかしい。それはもしかすると、古来より山水がわれわれの心に映ずるユートピアを描き出してきたことに因るものなのかも知れない。

盆・歳時記 樹形篇(一)

○模様木

 さて、そこのあなた、突然ですが盆栽をイメージしてください!

 と言われた人が、何となく思い浮かべる盆栽の樹形こそが、ザ・王道の「模様木」。一億円の盆栽も、波平さんの松も、卒業式の松も、イラスト屋の盆栽もだいたいこれである。

 立ち上がりにゆらりと一曲入って(カラオケではない)、右に左に曲を振りつつ、バランスの良い選りすぐりの枝々を塩梅する。空気を読まない閂枝や、急な脇枝の割り込みはNG。そしてトリを飾るのはご存知、堂々たる樹冠である。

○斜幹

 この辺でも傾いている電信柱を見なくなった。それだけあの地震から歳月が流れたということだろうが、かつての斜めになった電信柱には「傾いてもなお」という根性が感じられた。

 巨木の影が覆い被さろうと、豪雪の重みに撓められようとも、樹木はしたたかに陽の光を目指す。斜めっていると侮るなかれ。それはひたむきな生命の姿に外ならない。
 
○懸崖

 万丈の峰に籠もる山伏のスマホも、千尋の谷を見下ろして、その断崖に屹立する樹形もその名をケンガイと言う。

 谷底を見下ろしているのが「半懸崖」、最早バンジー・ジャンプなのが「大懸崖」。

 模様木でもダメ、斜幹でもダメならいっぺん試しに鉢ごと傾けてみる。「これならイケる。」懸崖構想を固めてニンマリする愛好家。やられる樹は堪ったものじゃない。それこそ山伏になって荒行をさせられている気分であろう。