かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

「読書感想文」よ、さようなら 【かたつむり通信 3号】

 夏休みの終わりは、すなわち作文の締め切りを意味するわけで「諸君の作文の責任は私が取る」と豪語した以上、私はセンセイ方の原稿のあがりを今か今かと待っている編集者のような状態。下書きの誤字を直しながら「もうちょっと、ここの考察を・・・」と、いつまでも粘っているものだから、この時期にハラハラしなければならない羽目になるのも、もはやマイ風物詩だったりします。

 しかしながら、今年は一大決心をして現行の『読書感想文』にケンカを売りに行くと決めた以上、〈読み〉を重視した『新しい読書感想文』を彼らにぜひとも書いて欲しくて、「感想なんぞで終わるんじゃない!」と檄を飛ばして闘いに明け暮れた次第であります。

 「闘い」とは言いながら、それは飽くまで「自分がこの作品をどう〈読む〉か」という作品との対話に他なりません。彼らと同じ作品を読んで、対等な読者の立場で「○○な作品と思って読んだ!」と語り合い、その根拠をたずねたり説明したり・・・そんなことをしていると化学反応のように新しい〈読み〉の可能性が見つかって、今度は「よし、その線でもう一度洗い直しだ!」の捜査がはじまる。それは読書および言語活動の面白みを凝縮したような時間であり、私自身もまた「あ!」っと、一本取られる秀逸な〈読み〉にも出会うことが出来ました。

 特に『リヒト!』という作品タイトルの、なんと「!」の部分についての考察には私も「!」させられた次第で、それによって私の『リヒト!』の〈読み〉がまた一つ豊かになりました。これは単なる感想の発表会では得られない感動でありましょう。

 『新しい読書感想文』とは、こうしたやりとりを通して煮詰めた作品の〈読み〉をまとめたレポート、言うなれば「文学論文の卵」なのです。「感想じゃねぇじゃんかよ」なんて批判はお門違い。彼らがゆかしく思ったり、「おや?」と引っかかった部分について、とことん論理的に掘り下げたものこそが〈読み〉なのだから、これにイチャモンをつける不逞の輩があれば「私が直々に出向いて文句をいってあげるから大丈夫」と、彼らを鼓舞した次第。

 「読書感想文」よ、さようなら。私はずっと君が嫌いでありました・・・。という直接的で主観的な物言いが、単なる一個人の心情吐露としてネット上に流れては忘れ去られていくように、言葉と文章が何億分の誰かの琴線に触れて生き残るためには、周到な論理と戦略が必要なのです。「感想」は閉じられたモノローグ、〈読み〉は開かれてナンボのダイアローグ。そこにこそ、AIに出来ない言葉の遊びと豊かさがあると私は信じています。

 塾生諸君、次の夏もぜひ一緒に作品の〈読み〉を深めて、頭にイイ汗をかいて参りましょう。

読書感想文にもの申す 【かたつむり通信 2号】

 お盆が明けまして、夏期講習も終盤戦に突入しました。夏休みを通してイイ感じに煮詰まってもらった塾生のみなさんも、そろそろ新学期にチューニングを合わせてゆかねばならぬ頃合いでありましょう。

 前回の通信でもふれました「作文講座」のなかで、意外にも多かったご要望が『読書感想文を書きたい!』でした。おかげさまで普段から存命中の作家をほとんど読まない私も、せっせと本を買って「へぇー、こんな作家がいるんだ」と新しい発見をさせてもらった次第でした。私の文学の師匠が、ゼミの学生が選んだ新しい作家と作品との出会いを愉快がって「うへぇ~」とヒメイをあげていた気分がようやく分かってきたように思います。

 課題図書を捜して行きつけの書店をぶらぶらしていた折に、ふと『読書感想文の書き方』のようなタイトルのハウツー本を見つけました。ものは試しと手に取って、模範として挙げられた感想文を読んでみたのですが、感心するどころか猛烈な違和を覚えました。確かこんな感じであったと思います。

 『ぼくは主人公の○○な行動が特に印象に残っています。ぼくは小さいころからサッカーを習っていますが、二年前に大事な大会の前にケガをしてくやしい思いをしたことがあります。云々。』

 「感想文」と云うだけあって、なるほど「ぼく」なりの実体験と読書体験の共鳴した部分を述べようとしているわけですが、ここがどうにも私にはイヤに引っかかるのです。言うなれば牽強付会、さっきまで読み込んでいた本を置き去りにして、突如はじまる自分語り。いったいこんな作文を誰が喜んで読み、誰が勇んで書くのかと思ってしまうのは私だけでありましょうか。

 本をダシにして自分を語るのであれば、そんなのは最早「国語」ではなくて「道徳」の管轄するところです。また「感想」とはブックレビューになりこそすれ、それが飽くまで一個人の体験と引き離しがたく普遍性を持ちえない範疇にとどまる以上、作品をより深く味わうための〈読み〉とはなりえません。

 〈読み〉とは、誰がその作品を読んでも「なるほど、こんな解釈が(も)出来るのか! よし、もういっぺん読んでみよう!」と言わしめる普遍性を持っています。だから、イイ〈読み〉は作品の解釈と価値を豊かにし、そこにより活発な言語交流の可能性を開くのです。それは論理的であると同時にクリエイティブな行為とも言えるでしょう。

 〈読み〉の根拠はすべて作品のなかにあって、そこで完結します。ここが実にカンケツで良いところですね。これぞまさに道徳と一線を画した「ザ・国語」という感じがしてくるではありませんか。読書をして何か書きたいのであれば、「感想文」などという浅瀬で遊んで「たのしかった」で終わってはいけないのです。こんなことをさせているから、『ごんぎつね』のまとめが作品と論理(文脈)をおよそ無視した「ごん」の追悼大会に堕してしまうのです。

 現行の型通りに、あえて自分の実体験に引き付けて書かせるような『読書感想文』は国語教育に不要であり、むしろ弊害さえ与えうる。これが私の見解であります。だったら私は塾生に「そんなもの書いちゃいけない」と言ったのか・・・。かたつむり学舎の新しい試みとその実践は、また次号で。

作文は自由で愉快 【かたつむり通信 1号】

 今年もかたつむり学舎の夏期講習に多数のご参加をいただきまして、御礼を申し上げます。おかげさまで塾長はひとり、目まぐるしい夏を謳歌しております。はじめて本学舎の門をくぐったみなさんには、おすすめメニューである「作文講座」を味わっていただいたわけですが、お楽しみいただけたでしょうか?

 学校で書く作文とはひと味もふた味も違って、「もう元のような作文には戻れない!」と嬉しい悲鳴をあげているそこの君は、文章を書くという行為がもっと自由で愉快なものであることを知ってしまいましたネ。ふふふ、とてもよい傾向です。

 学校で作文を書いていると、誰に言われるわけでもないのに、クラスのほとんどが似たような内容について書き、同じような言葉を使って「たのしかったです」で終わる作文をこしらえるようになります。まぁ、それは作文における一つの「型」を覚えたという点ではプラスなのですが、いかんせんこの「型」にとらわれ過ぎている感が否めません。

 そのせいで、表現のレパートリーがずいぶん狭いものになって、結局「たのしかった」に落ち着いていくより他にない、画一的な文章が出来上がる。本当に「たのしかった」にせよ、生徒それぞれが受け取った「たのしい」が、判で押したように一致するわけがないのです。

 例えば動物園で見てきた「パンダの動きがたのしかった。」としても、その連続した動きの一体どの部分に、どんな心の流れがジャストミートして「たのしい!」と反応したのか・・・。A君は「ごろごろしている様子がトトロみたい」と思ったところに、B君は「昨日の夜、ビールを呑んで酔っ払ってソファーで転がっているお父さんみたい」と直観したところに、そしてC君は・・・。

 だから「パンダの動きがたのしかった。」という一文には、語れるにもかかわらず語られないもの、つまり表現されることなくこぼれ落ちているものがたくさんあるのです。これをつぶさに拾い上げて書くのだ、と指導したところですぐに書けるようになるわけがありません。

 そこで必要となるのは、大量の例示であります。こんなのもアリだ、こんな表現をしたっていい、なんならこんな飛び道具も(思い切って、パンダ目線でそれを眺める子ども達の様子を書いても楽しい!)・・・という表現の多彩さ自由さを実際に披露して刺激を与えてやらなければ、彼らの鉛筆は動かないし、まだ言語化されないものを上手に拾い上げることは出来ません。ですから、今回の「作文講座」を四回受講した皆さんは、「例えばさぁ、こんなのも・・・」という表現のオンパレードをとことんお見舞いされたというわけであります。

 残念ながら、「型」にはまりすぎた窮屈な学校作文はAIでも書けてしまいます。そんなものを書いたところで、書く方だって読む方だって一向に面白くないし、むしろ書かない方が賢明です。強いインパクトを受けたことや、そぞろに思ったり感じたりしたこと、なぜか気になってしまったほんの些細な出来事や、そのディテールをリアルに、そして時にはちょっと盛ったりしながら書く作文にこそ文章を書く愉快さがあるのです。

 まずは「やってみせる」そしてマネっこさせて「やらせてみて」、それが出来たら大いに面白いと「ほめてやる」。山本五十六さん方式の教育法は、こと作文教育においても十全に功を奏するようです。

 その結果として「なぁんだ、こんなこと書いてもいいのか」「じゃあ、こんな風に書いてみようかな」と思えるようになれば、もう大丈夫。その子の作文観は大転換を経て、自由な表現の大海原へ漕ぎ出したと言えるでしょう。この夏の受講生のみなさんが、これから新しい気持で、何ならわくわくしながら原稿用紙に向き合えるようになっていることを願ってやみません。

かたつむり学舎の理念

一、論理的に考える力を育てる

 勉強とは〈何が、どうだから、こうなった〉の積み重ねです。各教科の勉強を通じて(それが将来絶対使わないと思う知識であろうと)、学生のみなさんは論理的にものごとを捉えるトレーニングをしているわけです。

 かたつむり学舎は、点取り目的の付け焼き刃の指導は行いません。それは論理に裏打ちされた知識と思考こそが、長く久しくのこり続けるからです。

 本学舎は徹底して、論理的にものを考える力を育てます。この力があってはじめて、人は自分で勉強が出来るようになる。自分の頭で、自分なりのものの見方が出来るようになる。言うなれば論理的思考とは、人生を豊かにするパートナーのようなものなのかも知れません。

二、「学ぶ」ことを学ぶ

 論理的にものを考えられるようになると「何が分からないのか」が分かってきます。

 すると今度は「それを分かるためにはどうしたらいいのか」「何を学ぶ必要があるのか」が見えてくる。これこそが「学び」の第一歩なのです。

 「学び」はいつだって能動的なものであり、一方的に教えられることに、「分かる」喜びはありません。やってきた塾生にたずねる第一声はいつだって「今日は何を学びたい?」。

三、「国語の力」はすべてに通ず

 学校の国語はスリリングさに欠けます。同じ文章を半月もかけてやるわけですから、展開される論理を追う緊張感も醍醐味もありません。

 「国語の力」=言葉をあやつる力は、論理的に思考する力そのものです。人間が言葉によって思考する生き物である以上、この力がないことにはほかの教科だって満足に勉強することは出来ないはず。つまり「国語の力」はすべての教科に通ずるのです。
 
 本学舎で国語を学ぶ愉しみを味わいながら、ここで鍛えた力を他教科に応用していく。だまされたと思って一度、かたつむり学舎で国語を学んでみませんか?

四、対話によって思考を磨く

 本学舎は、塾長による一対一の指導にこだわります。それは、塾生との対話を通して「論理的に考えるとはどういうことか」身をもって分かってもらうためにほかなりません。

 たとえそれが数学の学習中であろうと、対話のなかには互いの認識のズレを了解し、それを言葉によって埋め合わせていくプロセスが存在します。こうした対話の積み重ねによって、深くものごとを考える力を身につけてほしいと願っています。

五、学問の土台をつくる

 みなさんが現在取り組んでいる各教科の勉強は、学問の世界のほんの入り口に過ぎない、デモンストレーションのようなもの。

 本学舎は、奥深い学問の世界へ足を踏み出していく若者を応援します。学問とは「多元的なものの見方」そのもの。その一端にふれ、あるいはどっぷり心ゆくまで研究して身につけた「ものの見方」は、大学を出てもなお自分の血(知)となり肉となり、世を渡っていく塾生たちの心強い杖となってくれるはずです。

 塾生のみなさんには、このかたつむり学舎で学問の土台となる「論理的思考」を、うんと頑丈にこしらえてほしいと思います。

六、しなやかな知性を目指して

 論理的に考えたら、それを何らかのかたちで表現しなければなりません。さもないと、それは自己満足に終わってしまう危険があります。

 世の中の動きに流されず、いったん止まって考える。そして自分の考えを何らかのかたちで表現して誰かに伝え、対話によって互いの考えの相違を議論したり認め合ったり・・・これこそが現在必要とされる〈知性〉であると考えます。

 あらゆる不安材料が山積する未来を、これから塾生たちは歩んで行かねばなりません。彼らを学問の入り口に立たせること、そして彼らにしなやかな〈知性〉の芽を育むことこそが、このかたつむり学舎に出来る、草の根の社会貢献なのかも知れません。

ごあいさつ ~かたつむりの歩みでも~

 この学び舎を開いて早や十年、想い出深い数々の塾生たちと出会い、そして新たな挑戦のとば口へと送り出してきました。彼らを支えているつもりが、ふと気が付けば支えられている自分があり、思いがけない成長に嬉しい一本をとられることもしばしば。
 勉学というものを介して、塾生一人ひとりとの対話を重ねてきた日々は、私にとってかけがえのないものとしてあります。

 「かたつむり」とは大変おもしろい生き物です。じっと注意して見ていると遅々として進まない…しかし、ちょっと用などを足して戻って来るころには、キラキラ光る軌跡だけをのこして、ずっと向こうを這っている。この歩みこそは、勉学に励む人間の在り方にふさわしい――そんな思いを込めて、この学び舎は「かたつむり」の名前を冠しております。

 いま、世界は分断を煽る声に耳を聾され、知性を軽んじ理性をあざ笑う下降気流のただなかにあります。暗黙のうちに暴力と排除を容認し、台頭したポピュリズムに迎合する前に、私たちができるのは一個の人間として「考える」ことをおいてほかにありません。
 学問とはそんな「考える」人間の杖であり、多元的なものの見方を提示する道しるべのようなもの。
 塾生のみなさんが、ここで勉学と対話を通して論理的にものごとを考える力を身につけ、学問の世界に踏み出していくこと、そしてその先に思慮深い豊かな人生を歩んでいってくれることが、私の何よりの願いです。

 かたつむりの歩みでも、昨日より今日、今日より明日はきっと、ちょっとマシ、いや、ずっと良い未来に辿りつけますように――。
 かたつむり学舎は志ある若者の挑戦をあたう限りの力で応援いたします。

文房清玩(13) 机 Ⅴ

 机の高さや「ぐらつき」、傷といった諸々の検分が終わったら、最後は忘れずに椅子の善し悪しを測らなくてはならない。

 もちろん、最初からガタついている椅子は論外であるが、学校の椅子の塩梅ほどムズカシイものはないと私は常々思っている。

 まず、膝裏にあたる「ヘリの部分がささくれ立っていないか」は重要なチェックポイントである。これは高さと「ぐらつき」に次いで、ダメだっったら即チェンジしてしまわないと、制服なりジャージのズボンにじわじわとダメージが蓄積することになる。

 ここをクリアすると今度はグッと高度な品定めがはじまる。ツルツル具合のチェックと言うべきか、あんまりツルツル過ぎてもいけないし、コーティングが剥げ過ぎているのもいけない。尻が滑るか滑らないかのあいだが、私としてはもっともしっくりくる、座り心地のよい学校の椅子なのである。

 そうして苦心惨憺して、ようやく自分の椅子となるべきものを選び取っても、ゆめゆめそこで安心してはいけない。チェンジに次ぐチェンジを経て、ようやく「コレだ!」という椅子に巡り会ったと思ったら、不慮のシャッフルが起こっておじゃんになることもある。

 だから椅子には必ず(自分の名前を書くのは流石に恥ずかしいので)自分だけ分かる目印を付けておく。もし自分の椅子を誰かがさも自分のものであるかのように座っていたら、放課後にそっと取り替える。

 そんな人間はおそらく椅子を取り替えられても、「アレ、おれの椅子替わってるし!」という具合にはならないので安心してよい。

 毎年のように教室が替わったけれど、今思えばどうして同じ机と椅子をキープしておかなかったのだろう。次のクラスも分からぬし、そんなのを取り置きなんぞしていたら、きっと先生達も煙ったく思うことだろうが、もしかすると私は次なる机と椅子との出逢いを愉しみにしていた、とは言えないだろうか。

文房清玩(12) 机 Ⅳ


三、学校の机

 四月は忙しい。なぜなら新しい教室の机をよくよく吟味しなければならぬからである。

 新しいクラスの新しい座席に着いた瞬間から、クラスメートの顔ぶれより先に気になるのは、机の塩梅である。身長も低く座高も低い人間にとって、先ず以て一発で適合する学校の机と椅子など無いと言っても過言ではない。

 机と椅子の高さをチェックするのと同時に、ガタガタ四隅を揺すってみて「ぐらつき」も精査する必要がある。ここでカッタンカッタンとなるようでは、向こう一年およそ落ち着いた勉強は出来ないのであり、たとい自分で机や椅子の脚に細工を施したところで、無遠慮な教室掃除係によって早晩どこかへ吹っ飛ばされるのがオチである。

 お次は天板を検める。これもよくよく気をつけないと前に使っていた人間が、すさまじとしか形容しがたい「記念」を遺しているおそれがある。「天才」とか書きかけの「夜露死苦」だとか、中には不断の努力でもって、天板を貫かんばかりの大穴を穿つ輩、定規でギコギコとこれの切断を試みる輩もある。

 先代が志半ばで頓挫した作品(?)を引き継いで制作に打ち込んだり、古い時代に開けられた縦穴群に一本ずつ丹念にシャーペンの芯を詰めていく人間や、アホみたいなメッセージに時を超えた返信を刻むお馬鹿さんもあって、最早こうなると検分を忘れてしばし、そんなヒマな人々の営為に見入ってしまう。

 大穴に、刀傷ならぬ「定規傷」は流石にイケナイものの、人々の手擦れのしたヘコみ跡や、指の腹に心地よいほどの傷くらいならば甘んじて許容せねばならない。いや、寧ろその学年を終える頃にはそんな傷の一つ一つが、何となく愛おしく感じられることすらあるからオモシロイ。