かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

かたつむり学舎の理念

一、論理的に考える力を育てる

 勉強とは〈何が、どうだから、こうなった〉の積み重ねです。各教科の勉強を通じて(それが将来絶対使わないと思う知識であろうと)、学生のみなさんは論理的にものごとを捉えるトレーニングをしているわけです。

 かたつむり学舎は、点取り目的の付け焼き刃の指導は行いません。それは論理に裏打ちされた知識と思考こそが、長く久しくのこり続けるからです。

 本学舎は徹底して、論理的にものを考える力を育てます。この力があってはじめて、人は自分で勉強が出来るようになる。自分の頭で、自分なりのものの見方が出来るようになる。言うなれば論理的思考とは、人生を豊かにするパートナーのようなものなのかも知れません。

二、「学ぶ」ことを学ぶ

 論理的にものを考えられるようになると「何が分からないのか」が分かってきます。

 すると今度は「それを分かるためにはどうしたらいいのか」「何を学ぶ必要があるのか」が見えてくる。これこそが「学び」の第一歩なのです。

 「学び」はいつだって能動的なものであり、一方的に教えられることに、「分かる」喜びはありません。やってきた塾生にたずねる第一声はいつだって「今日は何を学びたい?」。

三、「国語の力」はすべてに通ず

 学校の国語はスリリングさに欠けます。同じ文章を半月もかけてやるわけですから、展開される論理を追う緊張感も醍醐味もありません。

 「国語の力」=言葉をあやつる力は、論理的に思考する力そのものです。人間が言葉によって思考する生き物である以上、この力がないことにはほかの教科だって満足に勉強することは出来ないはず。つまり「国語の力」はすべての教科に通ずるのです。
 
 本学舎で国語を学ぶ愉しみを味わいながら、ここで鍛えた力を他教科に応用していく。だまされたと思って一度、かたつむり学舎で国語を学んでみませんか?

四、対話によって思考を磨く

 本学舎は、塾長による一対一の指導にこだわります。それは、塾生との対話を通して「論理的に考えるとはどういうことか」身をもって分かってもらうためにほかなりません。

 たとえそれが数学の学習中であろうと、対話のなかには互いの認識のズレを了解し、それを言葉によって埋め合わせていくプロセスが存在します。こうした対話の積み重ねによって、深くものごとを考える力を身につけてほしいと願っています。

五、学問の土台をつくる

 みなさんが現在取り組んでいる各教科の勉強は、学問の世界のほんの入り口に過ぎない、デモンストレーションのようなもの。

 本学舎は、奥深い学問の世界へ足を踏み出していく若者を応援します。学問とは「多元的なものの見方」そのもの。その一端にふれ、あるいはどっぷり心ゆくまで研究して身につけた「ものの見方」は、大学を出てもなお自分の血(知)となり肉となり、世を渡っていく塾生たちの心強い杖となってくれるはずです。

 塾生のみなさんには、このかたつむり学舎で学問の土台となる「論理的思考」を、うんと頑丈にこしらえてほしいと思います。

六、しなやかな知性を目指して

 論理的に考えたら、それを何らかのかたちで表現しなければなりません。さもないと、それは自己満足に終わってしまう危険があります。

 世の中の動きに流されず、いったん止まって考える。そして自分の考えを何らかのかたちで表現して誰かに伝え、対話によって互いの考えの相違を議論したり認め合ったり・・・これこそが現在必要とされる〈知性〉であると考えます。

 あらゆる不安材料が山積する未来を、これから塾生たちは歩んで行かねばなりません。彼らを学問の入り口に立たせること、そして彼らにしなやかな〈知性〉の芽を育むことこそが、このかたつむり学舎に出来る、草の根の社会貢献なのかも知れません。

ごあいさつ ~かたつむりの歩みでも~

 この学び舎を開いて早や十年、想い出深い数々の塾生たちと出会い、そして新たな挑戦のとば口へと送り出してきました。彼らを支えているつもりが、ふと気が付けば支えられている自分があり、思いがけない成長に嬉しい一本をとられることもしばしば。
 勉学というものを介して、塾生一人ひとりとの対話を重ねてきた日々は、私にとってかけがえのないものとしてあります。

 「かたつむり」とは大変おもしろい生き物です。じっと注意して見ていると遅々として進まない…しかし、ちょっと用などを足して戻って来るころには、キラキラ光る軌跡だけをのこして、ずっと向こうを這っている。この歩みこそは、勉学に励む人間の在り方にふさわしい――そんな思いを込めて、この学び舎は「かたつむり」の名前を冠しております。

 いま、世界は分断を煽る声に耳を聾され、知性を軽んじ理性をあざ笑う下降気流のただなかにあります。暗黙のうちに暴力と排除を容認し、台頭したポピュリズムに迎合する前に、私たちができるのは一個の人間として「考える」ことをおいてほかにありません。
 学問とはそんな「考える」人間の杖であり、多元的なものの見方を提示する道しるべのようなもの。
 塾生のみなさんが、ここで勉学と対話を通して論理的にものごとを考える力を身につけ、学問の世界に踏み出していくこと、そしてその先に思慮深い豊かな人生を歩んでいってくれることが、私の何よりの願いです。

 かたつむりの歩みでも、昨日より今日、今日より明日はきっと、ちょっとマシ、いや、ずっと良い未来に辿りつけますように――。
 かたつむり学舎は志ある若者の挑戦をあたう限りの力で応援いたします。

文房清玩(13) 机 Ⅴ

 机の高さや「ぐらつき」、傷といった諸々の検分が終わったら、最後は忘れずに椅子の善し悪しを測らなくてはならない。

 もちろん、最初からガタついている椅子は論外であるが、学校の椅子の塩梅ほどムズカシイものはないと私は常々思っている。

 まず、膝裏にあたる「ヘリの部分がささくれ立っていないか」は重要なチェックポイントである。これは高さと「ぐらつき」に次いで、ダメだっったら即チェンジしてしまわないと、制服なりジャージのズボンにじわじわとダメージが蓄積することになる。

 ここをクリアすると今度はグッと高度な品定めがはじまる。ツルツル具合のチェックと言うべきか、あんまりツルツル過ぎてもいけないし、コーティングが剥げ過ぎているのもいけない。尻が滑るか滑らないかのあいだが、私としてはもっともしっくりくる、座り心地のよい学校の椅子なのである。

 そうして苦心惨憺して、ようやく自分の椅子となるべきものを選び取っても、ゆめゆめそこで安心してはいけない。チェンジに次ぐチェンジを経て、ようやく「コレだ!」という椅子に巡り会ったと思ったら、不慮のシャッフルが起こっておじゃんになることもある。

 だから椅子には必ず(自分の名前を書くのは流石に恥ずかしいので)自分だけ分かる目印を付けておく。もし自分の椅子を誰かがさも自分のものであるかのように座っていたら、放課後にそっと取り替える。

 そんな人間はおそらく椅子を取り替えられても、「アレ、おれの椅子替わってるし!」という具合にはならないので安心してよい。

 毎年のように教室が替わったけれど、今思えばどうして同じ机と椅子をキープしておかなかったのだろう。次のクラスも分からぬし、そんなのを取り置きなんぞしていたら、きっと先生達も煙ったく思うことだろうが、もしかすると私は次なる机と椅子との出逢いを愉しみにしていた、とは言えないだろうか。

文房清玩(12) 机 Ⅳ


三、学校の机

 四月は忙しい。なぜなら新しい教室の机をよくよく吟味しなければならぬからである。

 新しいクラスの新しい座席に着いた瞬間から、クラスメートの顔ぶれより先に気になるのは、机の塩梅である。身長も低く座高も低い人間にとって、先ず以て一発で適合する学校の机と椅子など無いと言っても過言ではない。

 机と椅子の高さをチェックするのと同時に、ガタガタ四隅を揺すってみて「ぐらつき」も精査する必要がある。ここでカッタンカッタンとなるようでは、向こう一年およそ落ち着いた勉強は出来ないのであり、たとい自分で机や椅子の脚に細工を施したところで、無遠慮な教室掃除係によって早晩どこかへ吹っ飛ばされるのがオチである。

 お次は天板を検める。これもよくよく気をつけないと前に使っていた人間が、すさまじとしか形容しがたい「記念」を遺しているおそれがある。「天才」とか書きかけの「夜露死苦」だとか、中には不断の努力でもって、天板を貫かんばかりの大穴を穿つ輩、定規でギコギコとこれの切断を試みる輩もある。

 先代が志半ばで頓挫した作品(?)を引き継いで制作に打ち込んだり、古い時代に開けられた縦穴群に一本ずつ丹念にシャーペンの芯を詰めていく人間や、アホみたいなメッセージに時を超えた返信を刻むお馬鹿さんもあって、最早こうなると検分を忘れてしばし、そんなヒマな人々の営為に見入ってしまう。

 大穴に、刀傷ならぬ「定規傷」は流石にイケナイものの、人々の手擦れのしたヘコみ跡や、指の腹に心地よいほどの傷くらいならば甘んじて許容せねばならない。いや、寧ろその学年を終える頃にはそんな傷の一つ一つが、何となく愛おしく感じられることすらあるからオモシロイ。

育児漫遊録(40) 寝返った男 Ⅲ


 両足の蹴っ張りが推進力となることを、もしかするとこの男は理解しているのだろうか。

 トムとジェリーであれば、こんな風に両足が空回りしていてもピューンと矢のように進んでいくのに、我が子の前進はいまだ仮想の域をでないようである。

 畳でこれをやると、畳だらけになるので会場をマットの上に移したり、手を引いて前進するイメージを持たせてやったりはするのだが、結局はまたその場で回転して終わってしまう。だが本人は満更でもない顔をして「どうだ?」という顔をしてくるけれど、「悪いけど、一向に進んでおらぬよ」と私も笑ってしまう。

 進んでる感は満載。実際のところ、回った時の何らかの誤差で初期位置よりは二三センチ進んではいるものの、そんな効率の悪い前進で満足してほしくはないものである。

 そんな親子の前進特訓は突発的にはじまり、唐突に終わる。二周も回って疲れると彼はがくんと頭をマットに埋めて、そこにある手をしゃぶりはじめる。父はプロレスのレフェリーみたいに、彼の前に這いつくばって「ギブアップか? ギブか?」と問うている。

 そんな様子を見かねた母親が「ギブだよ、ギブ。」と彼を救出してゆく。それでも最近分かったことが一つある。

 彼が疲れてくると、宙に浮いてブンブン空回りしていた両足が次第に接地してくるのである。すると一瞬如何にも理想的な太ももの運動が表れ、彼の上体がぐんと前方に押し出されるのだ。それ故に私としてはもう少し特訓を続けたいのであるが、「いやいや、この子のHPはもうゼロだから」と言われるとグウの音も出ないのである。

 まぁ、放っておいても前進が可能になるのは分かっているのだ。前進が可能になれば、そこでまた「大変な事」が増えてくることもまた分かっている。だけれど、いち早く彼の寝返りも見たいし、ずんずんこちらへ向かって這いずってくる姿も見たい。

 親心(親バカ)というものは、誠に仕様のないものである。あんまりバカを発揮しすぎて、いつか我が子にホントの意味で寝返られないことを祈るばかりである。

育児漫遊録(39) 寝返った男 Ⅱ


 さて、寝返ったはよいものの周りを見渡す以外に、この男、別段何をする様子でもない。ただ時折、突っ張っていた両手を離して腹でバランスを取ろうとする様子が見られる。その拍子で両手同様、両足もまた宙に浮いてバタつく姿は、虚空を泳ぐようでもあり、もっと分かりやすい例を用いるならば、「ミッションインポッシブル」におけるトム・クルーズと言ったところである。

 五分と経たぬうちに、彼の体力は尽きてしまったらしく「如何ともするなし」という顔をして、畳に顔を埋めてぐずりだしてしまう。これを助け起こして額に付いた畳を払ってやると、今度は腹が減ったの泣きが始まる。

 こんな感じで我が子の寝返りは開始されたのであるが、はじめのうちはせいぜい一日に二回ほど、気が向いた時にやる程度であったのが、一週間と経たぬうちにどんどんのべつ幕なしに寝返りを打つようになってきたものだから、こちらもウカウカしていられない。

 途中、何度も潜入するトム・クルーズの体勢を挟みつつ、まず回転が始まった。これは仰向けに寝ている頃もやっていた動作ではあるけれど、うつ伏せでやるのとではきっと筋肉の使い用も違うことだろう。

 その場で地団駄でも踏むようにして、ゆっくり一回転して戻ってきたあたりを捕まえて、頭を元の位置へ倒してぐるりと仰向けに戻す。すると本人はまだ回り足りなかったのか、直ぐさま腹ばいに戻って二周目の回転に入るので、もうこうなったら彼の気の済むまで回らせてやる。

 しかし、ここ数日はどうも違うのである。回るのに飽きたというのではなしに、回りそうなそぶりを見せながらも、どこか前方に進もうとする気配を見せ始めたのである。

 腕を突っ張ったまま両足を虚空にバタつかせて、ほんのちょっと届かない位置に設置した「舐められ太郎」の方へ、一歩ならぬ一手を繰り出そうとしているではないか。「ススメ、ススメ」と声を掛けつつ、激しく空回りしている彼の足を、なんとか接地させたいものだと気を揉む私がある。

育児漫遊録(38) 寝返った男 Ⅰ

 畳の上へ転がしておいたはずなのに、いつの間にか腹ばいになって、ニヤニヤ得意そうにこちらを見ている。両手を突いてぐんと頭を伸び上がらせる様子はまるで、どこかの展望台にはじめて上がった人の風情である。

 この男、ついと昨日までこんな芸当は出来なかったのであるが、つい先刻、突如として出来るようになったらしい。早い赤ん坊では生後半年も経たないうちに、もうころころ転がっている児もあると言うが、果たしてウチのはいつになったらいっぱしの寝返りを打つようになるのだろうと、ちょっと・・・いささか、いや、けっこう気を揉んでいた矢先であった。

 寝返りを成功させた当の本人はというと、急に自分の視界が変わったのが面白かったか、得意げに辺りを見回して、それを見せつける相手があることを確認するとこちらを向いてニヤニヤ笑っている。

 「寝返ったな」と言うと、最近生えてきた二本の歯を覗かせて「へへっ」と不敵な笑いを返してくる。昨日まであれほど横を向いたままウンウン呻っていたのが、まるでなかったことのような顔ではないか。

 足を返してすっかり横向き寝の体勢にはなるのだが、あと一歩のところで力尽きる。腕の位置が悪いのか、頭の上がりが今ひとつなのか、本人は瀕死の悟空みたいな声を喉の奥から絞り出しながら畳の上に這いつくばっていたわけであるが、いったいぜんたい如何なる拍子で出来るようになったものか。

 それは自転車に乗れるようになる時のようなもので、どこかの筋肉が規定値以上に発達したと言うよりかは、どこの筋肉をどう使えばよいのかのコツを掴んだという感じなのかも知れない。

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