お盆が明けまして、夏期講習も終盤戦に突入しました。夏休みを通してイイ感じに煮詰まってもらった塾生のみなさんも、そろそろ新学期にチューニングを合わせてゆかねばならぬ頃合いでありましょう。
前回の通信でもふれました「作文講座」のなかで、意外にも多かったご要望が『読書感想文を書きたい!』でした。おかげさまで普段から存命中の作家をほとんど読まない私も、せっせと本を買って「へぇー、こんな作家がいるんだ」と新しい発見をさせてもらった次第でした。私の文学の師匠が、ゼミの学生が選んだ新しい作家と作品との出会いを愉快がって「うへぇ~」とヒメイをあげていた気分がようやく分かってきたように思います。

課題図書を捜して行きつけの書店をぶらぶらしていた折に、ふと『読書感想文の書き方』のようなタイトルのハウツー本を見つけました。ものは試しと手に取って、模範として挙げられた感想文を読んでみたのですが、感心するどころか猛烈な違和を覚えました。確かこんな感じであったと思います。
『ぼくは主人公の○○な行動が特に印象に残っています。ぼくは小さいころからサッカーを習っていますが、二年前に大事な大会の前にケガをしてくやしい思いをしたことがあります。云々。』
「感想文」と云うだけあって、なるほど「ぼく」なりの実体験と読書体験の共鳴した部分を述べようとしているわけですが、ここがどうにも私にはイヤに引っかかるのです。言うなれば牽強付会、さっきまで読み込んでいた本を置き去りにして、突如はじまる自分語り。いったいこんな作文を誰が喜んで読み、誰が勇んで書くのかと思ってしまうのは私だけでありましょうか。
本をダシにして自分を語るのであれば、そんなのは最早「国語」ではなくて「道徳」の管轄するところです。また「感想」とはブックレビューになりこそすれ、それが飽くまで一個人の体験と引き離しがたく普遍性を持ちえない範疇にとどまる以上、作品をより深く味わうための〈読み〉とはなりえません。
〈読み〉とは、誰がその作品を読んでも「なるほど、こんな解釈が(も)出来るのか! よし、もういっぺん読んでみよう!」と言わしめる普遍性を持っています。だから、イイ〈読み〉は作品の解釈と価値を豊かにし、そこにより活発な言語交流の可能性を開くのです。それは論理的であると同時にクリエイティブな行為とも言えるでしょう。
〈読み〉の根拠はすべて作品のなかにあって、そこで完結します。ここが実にカンケツで良いところですね。これぞまさに道徳と一線を画した「ザ・国語」という感じがしてくるではありませんか。読書をして何か書きたいのであれば、「感想文」などという浅瀬で遊んで「たのしかった」で終わってはいけないのです。こんなことをさせているから、『ごんぎつね』のまとめが作品と論理(文脈)をおよそ無視した「ごん」の追悼大会に堕してしまうのです。
現行の型通りに、あえて自分の実体験に引き付けて書かせるような『読書感想文』は国語教育に不要であり、むしろ弊害さえ与えうる。これが私の見解であります。だったら私は塾生に「そんなもの書いちゃいけない」と言ったのか・・・。かたつむり学舎の新しい試みとその実践は、また次号で。




