夏越し
それは酷烈な季節であった。なんて文学的な述懐をこのところ毎年のように繰り返さねばならない。遮光したって地べたからの輻射を免れるわけではない。日に三度の水やりは茹で釜と化した鉢を冷まさんがためでもある。挙句の果てには鉢ごと土中に埋めてみたり、二、三日家を空けるならノアの箱舟、軽トラックに棚ごと乗せて疎開する。
ヒグラシの鳴く頃、早い湯をつかい、庭へ出る。ようやく和らいだ暑気に夕風がいたり、棚の樹も人間も安らいだ吐息をはく。
冬越し
盆樹の活動期間はプロ野球選手のそれとほとんど一緒である。秋のシーズンも終わるころに展示会の大舞台を勤め上げると、彼らはオフに入る。ハワイへバカンスとまではいかないが、寒風を完封するビニールの家庭用温室で羽を伸ばしつつ、年を越し、冬を越す。
春の第一声を聞くころになると、植え替えをまつ樹たちが続々とガレージにキャンプインしてくる。さて今年の開幕スタメンは誰だろう。
逆説的な自然
盆栽とは自然を模倣する人間の営みである。徹底的に人為を尽くして、そこに自然らしきものを観る営みである。いや、寧ろ自然なんてものはこんな風にしてこそ、ようやっと感得されるものなのやもしれない。
山の樹は自ら葉をふるい、枝をおとす。されど盆栽はこの一枝に病的なまでの情報量を詰め込んで、飄々としている。自然などそう易々と対象化しうるものではない。盆樹の影にはじめて、われわれは表現された自然を観る。