作文の時間(10) 比喩でつかまえて
前回申したように「比喩」とは、ある対象を表現する際に、余所からイメージを引っ張ってくる手法です。
それはあたかも化学変化のように、普段同居したことのない言葉と言葉が出会って、予想外の効果を生むことだってあるのです。一流の詩人は一流のスナイパーよろしく、まさに「それ」でなくてはならない取り替え不可能な比喩をビタリと中ててくることでしょう。
さはれ、そんなことを突然皆さんに「では、どうぞ!」と無茶ぶりしたのでは無責任にもほどがあるというもの。では、どうやって私たちは「比喩」を使いこなし、その効果を愉しむことができるのでしょうか。
(例文、一)
ようやく定期テストが終わった。机の上の消しゴムと鉛筆を片付けていると、「終わったんだ」という実感がわいてきた。
例文は、いわゆる中学生日記というやつであります。まあこれだけでも十分、解放された感が出ていて及第点でありますが、試しに少しイジってみましょう。
(例文、二)
ようやく定期テストが終わった。パーティーの後みたいな机の上の消しゴムと、騒ぎ疲れたような鉛筆を片付けていると、「終わったんだ」という実感が温泉のようにわいてきた。
どうやらこの人は、イイ感じでテストを終えることが出来たようですね。テストの疲れと同時に、やりきったという充実感、そしてテストから解放された感じがじわじわと、まさに「温泉のように」わきだしている心のうちが読み取れるようではありませんか。
ならば、こんなのはどうでしょうか?
(例文、三)
ようやく定期テストが終わった。荒野のような机の上に、墓石のようにすら見える消しゴムと、折れたヤリみたいに転がる鉛筆を片付けていると、「終わったんだ」という気分が、しみじみと浸してきた。
きっとこの人は例文二の人とは対照的に、件の定期テストにおいて、はかばかしい感触を掴めなかったのでしょう。比喩がもたらす雰囲気からすると、この「終わった」は「やってしまった(オワッタ)」的なニュアンスさへ感じられます。
「荒野」「墓石」「折れたヤリ」が導入する、どうしようもなく荒んだ感じが、その惨憺たる結果を物語っているかのようです。
このように、比喩という表現一つで、文章の調子は明るくも暗くも、軽くも重苦しくも変化してしまうのです。
ですから自分が表現したい雰囲気や物語世界を打ち出していくにあたっては、積極的に比喩の力でそれをつかまえることが実に効果的なのです。それはあたかも、作曲家が調性を選ぶかのように、作品の雰囲気を決定づける大事な要素の一つなのです。
でも、だからといって、やたらめったら比喩を使えというわけではありません。ここぞというポイントにこそ、素敵にマッチした比喩をワンポイント入れてやるだけで、文章は単なるレポートから読み物への一歩を踏み出すのです。
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