かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

蝸牛随筆(46) 暮のこる雲に Ⅱ


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 窓の外は次第に暮色を帯びてくる。

 暮れ残った光は入道雲をしたたるような朱に染めながら、奥羽の山々の稜線に没しようとしている。その山際のえもいわれぬ輝きは、所詮私の筆では言い尽くすことができない。

 遙かな穂波と、入道雲と山の端と。そぞろ歩きも悪いものじゃない。町と町のあわいを走る私は、折しも夜と昼のあわいの時間に居合わせたものらしい。時に人はこの時間を「マジックアワー」と呼ぶそうだけれど、「あわいの時間」というものは捉えようのない一瞬の出来事であって、それは少なからず「あわい」にある人間にだけ感得されるものなのやも知れない。

 ふと「トトロ」でトウモコロシを抱えたメイが、田の路を走る情景が想起された。あわいの時間は美しい。それでもそこには、いつか必ず喪われてしまう切迫が伴う。

 早く家路に就きたいと思う心と、もう少しだけうらうらと、信号も行き交う車も視界を遮るものだってない遠回りの路を流していたい気持ちとが、さざ波のようにやさしくせめぎ合っている。

 刈り立ての青草がにほふ土手の道を通り、遙かに見えてきた市街地のシルエットを大きく迂回して川沿いに進む。屋敷林の点々とする集落をいくつも過って、小さな支流に掛け渡した橋を過ぎ、私のトラックはようやく街のはずれに至った。

 このまま本通りに合流してしまえば、妻子の待つ家居までは一本で到着する。だけれど空はいま少しだけ暮れ残って、さいごのあがきでも見せるかのように紅の光芒を放っている。

 街が見たい。

 あわいからやってきた人間は、街が暮れ落ちる姿の見てみたさに、トラックのハンドルを切るが早いか、勝手知ったる路地に分け入る。