かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

文房清玩(9) 机 Ⅰ


 物心のつく前から、これに向かうように仕向けられてきたような気がしないでもない。筆記用具を持ったならば、必ずそこになければならないもの、それが机である。

 茶の間のテーブル、勉強机、学校の机、講義室の机、そして私の愛用する文机・・・思えば自分は様々な机を経由しながら今に至るわけで、中には正規の机ではなくて、それに準ずる机もあっていよいよ思い出が深い。とりあえず順を追いつつ訥々と語っていくことにしよう。

一、茶の間のテーブル

 自分の部屋らしきものはあったけれど、私は所謂お茶の間派であった。常に家族が誰かしらそこにいて、ともすれば何かのおこぼれに与ることもある。誘惑は多いながらも、宿題をしたり絵を描いてみたり、物心ついてより受験期に入るまでの間、お茶の間の机が私の書くスペースであった。

 もちろん人がいるから、途中でちゃちゃを入れられて面白くないこともある。私が宿題を書いている脇で、弟が徐に「子供の時間」を観はじめると、ついつい釣られて一向に本日のタスクが進まないこともしばしばであった。

 それでもそこには常に、誰かしらの話し声があって、お茶飲みのお客さんもやってきて、のべつ「言葉」に取り巻かれてあるという実感があった。おそらく私が自分の勉強部屋に寄りつかなかったのは、そうしたものが無いのに堪えられなかったのだろう。

 どこのお宅に行っても、だいたいのお茶の間テーブルには四方をぐるりと縁取る溝がある。ここで書き物をしていると、これがまたくせ者なのである。紙を広げて意気揚々と筆記具を走らせていると、急にズボリと底が抜ける。避けているつもりが、夢中になって書いているうちに紙が溝の上に来てしまうのである。

 ノートに書くのなら問題はないのだが、プリントとなるとそうはいかない。おニューのシャープペンシルの先が貫通した時のアララという気持ち、うだつの上がらない日に限って何度となく溝にドハマリするときのやるせなさは、小味ながらよく記憶にすり込まれている。

 そうそう、これは今でもたまにやってしまうことであるが、お茶の間の机で書き物をするときはよくよく水気にも注意したい。布巾で拭いた後、湯飲みを置いたあとにうっかり用紙を置いてしまって「ヤバイ」と思った経験は誰しも一度はおありだろう。

 そんなところもまた、いかにもお茶の間らしいではないか。人の気の絶えた個室でスマホから流れてくる誰かの声を聞くよりかは、雑多なものに囲まれた一丁目一番地、お茶の間の机がいい。

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些事放談 『ありき』の世界 Ⅲ


 原発処理水の海洋放出、鳴り止まぬメイワク電話、風評被害、食の安全性・・・これらの問題群にわれわれは如何に向き合ってゆくべきなのだろうか。

 これからの青写真を描いていくにあたって、まずは『ありき』の思想からの脱却が図られなければならない。決定したこと『ありき』で見切り発車した上に、「予想外」の不備が多発してまたもや行き当たりばったりでその場しのぎでしかない駄策を捻りだす愚には、もうわれわれは飽き飽きしたはずである。

 マイナンバーと健康保険証を性急に抱き合わせた結果、予想外の不備が噴出した挙げ句、ムダに税金を使ってヘンテコな保険証を配布する迷走ぶりは見るも無惨な一例である。

 不測の事態が起こったときに、「そんなとてつもない事態は想定していませんでした。」という言い訳はかの大地震よりこの方頻繁に聞くようになったような気がするけれど、「想定外」とはつまり想像力の欠如に他ならない。「気候変動だから想定外は当たり前だ」とか「千年に一度だから想定外だった」と言ったところで、誰も救われる人間はいないのである。

 だったら後悔しないためにも、使える限りの想像力を駆使して不測の事態に具えるための議論を興すのが、頭の良い人間のやり方ではないのか。『ありき』の思想で生きている近視眼的人間には、いまより先の未来が一向に見えていないのである。

 原発の危険性をあれほど骨身に染みて味わったというのに、この国は昨今の電力不足にかこつけて、しれっと原発に回帰している。原発の危うさは、人間の制御可能な範疇を軽々と超えるところにあるというのに、「安全だ、安全だ」という空疎な自己鼓舞とともに、政府は再生可能エネルギーという選択肢を議論の俎上から降ろしてしまって久しい。

 原発ありき、放出ありき・・・そんな思考停止がヨソの国々の目にはどう映るのだろうか。考え得るあらゆる選択肢を提示すること、そして開かれた場でその如何について討議すること、つまりは「よく悩む」ことこそがこの国には求められているのだと私は思うのである。
 鮮やかな政治決定より他に人間の知性を馬鹿にする行為を私は知らない。
 

些事放談 『ありき』の世界 Ⅱ


 ちょっと中国側になった気持ちで考えてみる。ちょっとした貿易相手国で、今は経済的技術的にも求心力を喪いつつある日本という国が、「海洋放出やります。その安全性を説明しに来ました。」と言ってきたら、やっぱり「ハ? ふざけんなし。馬鹿じゃねぇの? ここは一つ思いっきりゴネて、素敵な譲歩を引き出してやりましょう。」という気になるのではなかろうか。(少なくとも私であったらそうする。)

 『ありき』の思想の弱点は、もちろん見切り発車でぽしゃるというのもあるけれど、やはりその弱っちい知性を相手に丸出しにしてしまうところにあるのだ。

 「他は何か考えなかったのか?」と尋ねられても、「これにすると決めたんで、説明を聞いて下さいよ。」なんて答え方をされて「じゃあ、いいよ」何ていう奇特な人が果たしてあるだろうか。他の二国はオーケーを出したようだけれど「やだね、信用ならない。」というリアクションを取った中国の方が、よっぽどマトモであると私は思ってしまう。

 そんな日本政府は「中国は理解してくれなかった」の一点張りであって、いよいよアホを露呈してしまっている。それは「理解してくれなかった」のではなくて「理解してもらう努力を怠った」というのが正しいのである。

 どうにもならなくなった大量の処理水をどうにかしなければならない、となった時にこの国の政府は「プランA」「プランB」とそのメリット、デメリットを含めて国民に示して広く議論に期すべきだったのではないか。その議論のプロセスこそが他国を説得するにあたっての重要な説得力になるのではないのか。

 『ありき』の思想は国民を置いていく。それは果たして民主主義なのだろうか。選挙で当選したからといって、一つの政党がブラックボックスの中で独断したものを民意と呼べるのだろうか。これでは政治の関心もへったくれもないのであり、その喪われた関心が政治における『ありき』の思想を加速させる。

些事放談 『ありき』の世界 Ⅰ

 原発処理水の海洋放出がはじまったようだ。それに伴ってお隣の中国から福島をはじめとする近県に、オカシナ電話がかかってくるそうで、毎朝のニュースはその心ない所業をこぞって取りあげている。

 確かにそれは「心ない所業」であって、日本の一個人のもとへあてずっぽうに電話を掛けてくるという時点で、その知性や倫理に重大な欠陥があると言ってよかろう。そんなことをしたところで「救い」なぞないというのに。

 福島は国策によって多大な被害を受けた上に、その後もなお苦しめられ続けている。処理水をどうにかしたところで、今度は再び風評に遭う。結局のところ福島の被災地にも「救い」はないのである。沖縄もそうだが、どこまで福島にワリを食わせれば気が済むのだろうか、と暗澹たる想いに駆られる。

 AIが分析する将棋の局面のように、政治判断に最善手というものは存在しない。しかしながら政府の打っている手が、限りなく悪手に近いものであることは分かる。なぜなら、彼らはいつも『ありき』の思想で物事を進めようとするからである。

 先日の「モーニングショー」で、処理水排出を日本が近隣の国々にどのように説明責任を果たしたか、という話題が出た際に玉川氏がクリティカルな質問をしていたのが印象的であった。

 中国にそれを説明する際に、日本は海洋放出以外の方法も一緒に提示したのかどうか。つまり、氏の質問の本意は「また日本は決めたこと『ありき』で話をしたのではないか?」というところにある。マイナンバーの問題然り、トップダウンで出てくる政策はみながら「こうすることに決めましたのでやります。」という唐突な物言いで始まるわけで、今回の海洋放出にいたっても、やはり「海洋放出をやります。」という結果しか伝えられてはいない。

 果たして氏の質問に対するはかばかしい応えはなかったものの、中国をはじめとする近隣国に日本は『ありき』で話を持ちかけたのではないだろうか。そこに「そういう考えにいたった過程」というものは一切見えてこないわけで、ヘタをすれば何とかの一つ覚えと思われても仕方がないのである。
 

盆人漫録(39) え? 切るの?


 自分が持ち込んだ教材を各人それぞれ作業することもあれば、誰かが持ってきた樹を合議にかけてやいのやいのと手を掛けることもある。時には害虫の話が各人の野菜作り相談会と化すなんてこともしばしばですが、それもまた貴重な情報交換。わが古川盆栽同好会の例会はいつもこんな感じであります。

 今日の教室にやってきたのは、大きな五葉松。蔵者曰く「この樹を整えて、秋の展示会にどうかな。分かんないけど、アハハハ!」というので、早速皆が松の木の周りに集まって検討がはじまります。

 「どうかなぁ。こっちを活かすか?」
 「なるほど、私ならこっちを取るかなぁ。」
 「やっぱりどっちかで作るしかないよなぁ。」

 しかしながら、出てきたのは蔵者にとって思いも掛けないアイデアばかり。碁には岡目八目という言葉がありますが、これはひょっとすると盆栽においても同じで、自分のでない樹が相手であると「よし、ここを切っちゃえ」「弱点はここだから、こうした方がイイ」だとか、自分の樹を相手にするときよりもよっぽど柔軟なアイデアが飛び出すからオモシロイものです。

 先生も「人の樹をちょし(いぢっ)た方が勉強になる。んだから、オレはここさ来る度、いっつも勉強させてもらってます(笑)。」と仰るように、自分の樹にある遠慮がないのです。ハタから見ればこれはヒデぇ話なわけですが、そうした自分では思いつかないアイデアをもらえるという点では、やはり持ってきて合議にかけることに意味があるのです。

 整えるつもりで持ってきたのに「親幹か子幹かのいづれかを切るべきだ」という話になってきて、ホワイトボードに樹形構想まで書き出す輩(私)まで出てくる。さはれ、決断は飽くまで個人の自由。現状維持か、それとも切るか・・・しばらく考えていたと思ったら、なんと切るとのこと。

 「もしダメだったら、宮川くんが切れって言ったって言うから(笑)」一同大笑いで、私は自分の樹をいぢっていた手を止めて「マジすか?」とニッコリ悲鳴を挙げた次第でありました。

塾生心得 モヤモヤするってことは Ⅲ


 だからこそ私はまず塾生諸君に「学問」をする下地を作れと申すのです。

 学問をすることとは、一つの「ものの見方」を学び、なおかつ自分と違う主義主張を持った他者の視点や見方が存在することを知るということなのです。現在わが国ではそうした「学問」の価値が蔑ろにされる傾向が著しく、儲かるためのガクモンにばかり注力したがるアホな政治家が得意げに「議論なきギロン」を繰り広げています。

 学問が糾弾するところは、まさにこうした近視眼的な利得にばかりとらわれた「今が良ければそれでよい」という腐りきった考えであり、この国の将来をより一層空疎なものへと向かわせようとするなさけないオトナ達なのです。

 と、いけない、いけない。ついつい私のモヤモヤの話になってしまいましたが、塾生諸君の抱えているモヤモヤの話に戻りましょう。

 そのモヤモヤが「将来」の見えづらさに起因していることは前回述べた通りです。しかし、だからといって「そういうことだから、自分は将来のヴィジョンとやらが定まるまで、気の向くまま風の向くまま、無為に過ごしてみよう」なんて了見を起こしている場合ではありますまい。そんなことではいよいよ病膏肓に入ってしまうわけで、モヤモヤは解消されないまま「とりあえず受験して・・・」という無考えなループにまた舞い戻ってしまいます。

 ではこう考えてみるのはどうでしょう。今、モヤモヤするということは、寧ろチャンスなのではないか、と。現にモヤモヤしているということは、それがまだはっきりとした輪郭を取っていないながらも、少なくとも自分が問題の所在に近づきつつあるということなのではないか、と。

 そんなモヤモヤと向き合う態度と覚悟が決まれば、あとはそのおぼろな輪郭をはっきりさせていけばよい。自分が一個人として社会に出るにあたって、果たして社会とはどんなもんなのか、新聞を読んでみるのも良し、そして身の回りの大人にその歩んできた道のりを尋ねてみるのも良し。

 社会に生きるリアルな大人の姿を一つのモデルとして取り入れて、「へぇ、こんな生き方もあるんだ」という一つの参照項を作るのです。そして、それを参考としながら「自分はどんな感じになりたいのか」をイメージしてみる。別に厳密に決めなくてもいいのです。それが大まかなヴィジョンであろうとも、ずっとモヤモヤしてうだつの上がらない状態よりかは百倍マシというものです。

 自分から外部に働きかけることなしに、モヤモヤが解消されると思ったら、それは大間違いであります。この働きかけを怠って無闇に親に当たり散らしたり不孝の王道を行くよりも、自分のモヤモヤとうまく付き合って、ちょっとずつそれに輪郭を与えていくことの方が、自分もハッピーであるし、汗水垂らして自分の学費を捻出してくれている親御さんだってハッピーであるはず。

 とりあえず、まずは自分が「モヤモヤ」していることを認めることからはじめてみてはいかがでしょうか?

塾生心得 モヤモヤするってことは Ⅱ


 しかしながら、同情しているばかりではラチがあきません。「同情するならアンサーをくれ!」という切実な訴えが飛んできそうなので、ここは私なりの処方箋をモヤモヤで悩める諸君に出しておかなくてはなりますまい。

 私が思うに、そのモヤモヤはおよそ無自覚なままに将来の岐路に立たされることによって生じるものであり、これは日本の義務教育にわたる構造的な問題であると考えます。いくら社会科見学をしたって職場見学をしたって、学校と社会はびっくりするほど隔絶されているわけですから、わが国の中高生は一向に社会のリアルを感じることもままならず、ヘタをすると「受験だけ考えていればいい!」という驚くほど狭隘な視野(世界)だけを提示されて、そのほかのコトは考えなくてもいいなんて環境を与えられるケースもしばしば・・・。これでは思考停止も甚だしく、教育=受験請負人という悪しき認識と構図が丸見えです。

 果たしてそれは、人間社会の一員として自ら思考し生きていく大人を育てるための教育ではありますまい。大事なのはもっと学校と社会の風通しをよくすることであり、大人が何をやっているか(ユーチューバーが何をして視聴者を稼いでいるかではなくて)をもっとよく見えるようにしないことには、「将来」なんて二文字はよっぽどの場合でなければ見えてこないのです。(寧ろ、若年層がいまユーチューバーになりたがるのは、結局のところそれが一番「オトナが何をやっているか」を見やすいためではないのか・・・。)

 だから、モヤモヤしてしまう。そのモヤモヤの根本的原因は「将来」という文字が、あまりにも抽象的で、しかも空疎であることなのです。将来のためにちょっとでもイイ学校を受験して、受かってイイ大学に行って・・・という使い古された言い回しほど、現役の中高生にとってある意味癪に障るものはないのです。

 大事なのは少しでもオトナのリアルを開示してやることであり、塾生諸君はもっと学校のソトに広がる(断じてネット世界ではない)世界に目を向けて、自分がその広大な世界の単なるとば口にいるだけの存在であることを深く自覚せねばならぬのであります。