かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(31) 渡り鳥に告ぐ

 取りあえず通わせておけばよい学習塾なんてありません。

 世の中にはどうも、そこのところが分かっていなくて、青い鳥を捜して塾を渡り歩くワンダー・フォーゲル(渡り鳥)が一定数あるようですが、残念ながらそうした親子に安住の地はありません。

 かつて私もそんなのにイヤな思いをさせられたことがありますが、この手の親子の間には、なかなかどうしてエゲツナイ断絶があるようです。

 まず以て子供は家で勉強をしないし、復習もさっぱりしてこない。生真面目に机に向かっているのは教室にいる時だけ。これではただただ効率が悪いし月謝のムダ遣いも甚だしいというもの。

 さて一方の親はというと、これが驚くべき事に自分の子供が家で一生懸命勉強している、と思い込んでいるからタチが悪い。子供の見せかけにまんまと騙されて「ウチの子はマジメでイイ子」という幻想を逞しくしている始末です。

 だからテストの点数が思ったほど上がらないだとか、模試の成績が芳しくないとなると、即座に「塾渡り」の準備がはじまる。

 テストの点数なんぞ「小細工」ひとつで十点も二十点も上がるのですが、そんな馬鹿馬鹿しい小細工をしたところで意味はありません。今のテスト範囲よりよっぽど前の段階で、決定的な問題が露呈しているのに、そちらを蔑ろにして点を取らせるなど実に愚かしいことではありませんか。

 「土台が腐っている」ことをマイルドに忠告したところで、聞く耳を持ってくれるはずもなし。子供も基礎計算においてケアレスミスを連発しておきながら、それがちゃんと出来ていると思い込んでいるものだから、一向に救いの余地がありません。

 いずくなりとも、お好きなところへ渡っていくがよろしい。どこへ行ったって結果は同じであります。

 親子揃ってそんな了見では、どこの塾に云十万の大金をつぎ込もうとも、それは論理的思考能力を具えた人間を育てる営みではなく、どこまで行ったって付け焼き刃。消費されるための教育なぞ、はじめからやらない方がマシなのです。

 それはリスクにこそなれ、何のクスリにもなりません。