「pomera」を使って「万年筆」のことを書くというのは、どうもヘンな感じがする。
ワープロで文章を書くことの利点は、もちろんその推敲のしやすさにある。とにかく書き留めておきたいことを自動記述よろしく書き出して、それをゴリゴリと削って整えるような荒削りをしたところで紙のロスはないし、何ならそれをそのまま清書としてプリントアウトするなんて芸当だって可能である。
だけれど万年筆となるとそうは問屋が卸さない。水に濡れるとインクが直ぐに滲んでしまうけれど、どう頑張っても結局清書をし直す羽目にはなるけれど、万年筆には万年筆によるモノの書き方があって、思考法があるのではないだろうか。
白い紙にインキを乗せていく瞬間には、ある種独特の緊張がある。ワープロでうだうだ文字を打っては消すようなだらしなさがそこにはない。
つまりは、潔いのである。
そしてこれは単に潔いばかりではない。ペン先に思考を凝集して刻みつける紙の上。そこにはワープロの頭と違った書くことの次元がある。
語り方の順序ひとつ間違うだけで、文章の流れはガラリと変わってしまう。ワープロならガチャガチャと無粋に段落を挿入したり、入れ替えたりすればよいものを、一度ペンで刻み込んだ字はそうやすやすと消されてはくれない。塗りつぶすという手もあるけれど、それはあまり美しくない。しこたま呑んだ後の日記などが、まさにその悪例の最たるものである。
だから私はふだん、思ってもみない方向へと話頭が転じても、敢えてそのままペンと一緒にそちらの方角へ流れていくことにしている。その流れた先には思いもよらぬ収穫があるやも知れぬし、予定調和に甘んじないペン先の冒険に、書き手もまた心を躍らせているのだ。
何と言っても書き味は折り紙付きである。私が愛用するセーラーの万年筆は、売り場のショーケースを開けてもらって、度重なる試し書きの末に選び抜いた一本である。
一日「pomera」に向かってモノを書いていい加減飽和状態になっても、これを用いて書き付ける日記は別腹なのである。もちろんワープロも私の書き物には欠かせないけれど、それだけではきっと何か重要なものが枯渇してしまう気がしてならない。
お気に入りのブルーブラックのインクをペンの先に湛えて「さて、何を書こうか」。このトキメキが私にとって物を書く上での貴重な資源なのかも知れない。