かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

蝸牛随筆(6) 日々をカタる

今週のお題「日記の書き方」

 語るということは、ウソを付くということである。たといそれが真実であろうと無かろうと、語った以上、それは「騙り」という性質を多かれ少なかれ含有することになる。

 中学生からこの方、文学の洗礼を受けてより「旧仮名遣ひ」で以て、現在齢三十を過ぎてもなほ日記を書き続けているけれど、この「究極の一人称語り」をしていると、われながら天晴れなほど「騙り」を行っていることを、毎晩の如く思い知らされる。

 もちろん、真っ赤なウソを書きつけているわけではない。その日起こったこと、騒がしい世情、日増しに膨れてくる妻のお腹のこと、日記だからこそ許されるようなことも書くけれども、やはり「書かない」「語れない」ことも多々ある。

 日記を書くということは、書いていることより寧ろ「語らない」ことを強烈に意識することでもあるのだ。いくら事実を並べていても、ある部分を意識的に回避して書いている自分を発見するとき、私はそこに「騙り」を発見してニヤリとする。

 そして不思議なことに、語られなかったそれは何年経っても、日記を読み返した際には、その文字の裏にぼんやりと浮かび上がって、私を苦笑いさせるのである。こうなってくると、もはや私の日記は「語れない」ことを迂回して語るあまり、晒したくない恥部を浮き彫りにしてしまっているかの感があり、ある意味実に正直である。

 臨床文学論の試みは、まさにそんな所に照準を当てているわけだが、誰に読ませるでもないくせに「語らない」「語れない」というのは、やはりどこかに「読者」を想定してしまっているからなのだろうか。

 谷崎潤一郎の『鍵』のように、あからさまに第三者に「読ませるための日記」というのでもないが(開きっぱなしの日記を妻に読まれて、口をきいてもらえなくなった事件はこの際伏せておくことにしよう)、なるほど、永井荷風の『断腸亭日乗』に憧れてきた節も否めない。

 だけれど私の「語れないことを回避する騙り」はもっとずっとどうでもいい、個人的なところに、その源泉があるような気がする。

 まだ心のうちで蟠っていることを言語化していく行為というものは、時に恥ずかしく、時に苦痛を伴う。まだじくじくとウェットな傷口にふれることは誰しもが憚るものだが、それが時間と共に瘡蓋になったら、にわかに弄くり出したくなるように、「語れないものを語る」ためにはそれなりの時間を要するのである。

 だから私の日記は、そんな日々のかすり傷やら大けがのじくじく痛むところを回避して「語り=騙り」ながら、数年後のある日やおら思い出したように瘡蓋をいじっては、一人ペンの先でゲラゲラ笑っているのである。