かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

子宝日記(20) 軟禁パパと難産ママ Ⅵ

 母子の休養を慮ってか、私が押し込められた個室には白色煌々たる蛍光灯がない。あるのは洒落たバーみたいな間接照明と、ベットサイドの読書灯ばかりである。

 分娩台に行く妻を見送って四、五時間。この照明ではそろそろ本を読むにも心許ない。かといって缶詰にされてたっぷり書き物もしたせいで、そっちもそろそろ飽和状態である。ハテ、困った。見通しがなくて待つ時間というものは、おそろしく退屈であるが、それはどこか急かされているような退屈であって、およそ何かをしていないと耐えられない退屈である。

 かつて読んだ国分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』という本に、田舎の駅で延々と汽車を待つ退屈の例が出ていたけれど、万策尽きて棒きれで地面にお絵かきをはじめた「私」(ハイデガー)の姿と自分がぴったりと重なった。

 机に向かっていた身体が伸びを要請する。決して快適とは言えない椅子を引いて、思いきり両手両足を伸ばしてみていたところ、やおらドアーが開いてはじめて見る顔の助産師がつかつか入ってきた。不意打ちを食らって少なからず周章てたのを気取られないように、わざと鷹揚に居ずまいを正す私を尻目に、そのおばさんは自分が某長の某であると名乗った。

 なるほど他の助産師に比べて年増であるところを見ると婦長か何かなのであろうが、その話しぶりはえらく早口で淡々としていて、電話口で時報を聞いているかの感がある。そして何より違和を覚えたのは、やたらにこのおばさんの立ち位置が近いことである。もう半歩も近寄れば接触してしまいそうな位置にまでわざわざ寄ってきて、よく「すわった」目で私を見据えて喋りまくる。

 野生動物であれば、威嚇ととられてもおかしくない不自然さであるけれど、おそらくこれは長年の勤務によって張り付いた「顔(ペルソンヌ)」であり、身体化された振る舞いである以上、本人にとっては実に自然なことであるのだろう。