かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

蝸牛随筆(26) でんしすと Ⅰ


 とうとう歯医者に行くことになった。

 別に虫歯が痛むわけでも、親知らずが化膿してたいへんなことになっているわけでもないのだが、そろって家人に「早く行け」と言われて歯医者へおもむく。幼少のみぎりは痛切な自覚症状による退っ引きならない要求から、ないしは新年度の歯科検査に引っかかってしぶしぶ歯医者の門をくぐったものである。しかしながら今度ばかりは、そういった実際的な要因のいまだ顕在化しないうちから歯医者へ出かけるという初の試みである。

 「おまえさん、きょうは何しにここへ来たんだい?」「さぁ、なんでしょう。」「歯が痛いのかい?」「いや、ぜんぜん。」「詰め物でも取れたのかい?」「何にも取れちゃいません。」「困ったお客(患者)だねぇ。」「ええ、あっしもそれで困ってるンです。」

 なんて、落語で謂うところの与太郎の問答が頭の中を低回する。定期的に歯医者へ行っている家内が、先月のうちに私の分までご丁寧に予約を入れてしまったため、一月あまり私は戦々恐々としながらカレンダーをにらみ続けていたのであるが、とうとうそのエックス・デーが到来してしまった次第である。

 何て言えばよいのかと家内に尋ねると「検診に来た」と言えばよい、とのこと。先方にもそのように伝えてあるというから、どこまでも手回しがよい。いよいよ油断ならなくなってきたので、神妙な面持ちで念入りに歯を磨いていると、あっちこっちから出血したらしくブラシがピンク色に染まっていた。

 歯医者へ出かける前のにわかブラッシングなど、きっと悪あがきに過ぎないのだろうが、「歯が汚い!」という強い第一印象を先方に与えてしまった日には、何か強力な手段に出られるやも知れない。まさに血の滲むような思いで私は歯医者へと出かけていったのである。