かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(63) 違うものは違う Ⅰ

 『子供が勉強で間違えても「違う」とは言わないようにする。』

 この頃こんな教育方針を耳にしたのですが、これに如何ともしがたい違和感を覚えてしまう私は旧弊な人間なのでしょうか。

 一応私は国語畑の人間ですから、自分の授業や指導の中では極力、子供達の発言を真っ向から突っぱねるようなマネはしません。だからその意味では条件付きで「違う」と言わない主義でありますけれど、その答えが論理的に破綻していたり、読解に明らかな恣意性ないしは勘違いが見受けられる場合には、その答えに対して最終的に「違う」という見解を述べるようにして参った次第であります。

 「国語」と「道徳」という教科の違いは、論拠や発言の主旨をテクストに求めるか、それぞれの情操に求めるかという点に尽きます。よく「国語には答えがいっぱいある」なんて言い方をする人がありますけれど、そんなのは眉唾もので根拠を突き詰めれば、到底受け容れられない答えがゴロゴロ転がっているのです。

 あらゆる答えを「そうだね」なんて許容して「違う」と言わない、いや、言えない国語の教員は、国語と道徳の混同も甚だしいメイワク教員に他なりません。いったん彼らの答えを受けておいて、そこに違和を覚えたら、きちんとその論拠を問うてやる。スジが通っていなければ必ずどこかに論理の綻びはあるし、その綻びの一点に無理なく追い込んでやることで、子供はちゃんと自分の答えが「違う」ことを納得するのです。

 これこそが言葉つまりは論理のトレーニングとして欠かせない行程であり、たとい「違う」答えを出して失敗したとしても、その失敗に気づく過程も含めて「国語」の学習とする必要がある、と私は常々思うのです。

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