かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(64) 違うものは違う Ⅱ


 「国語」の学習において、私は子供といえども決して容赦は致しませぬ。彼らから打ち返されてきた答えを受けたら、あらゆる誤読の可能性を探り、彼らが迷い込んだ袋小路の出口へいち早く先回りし、時に綿密な対話と言葉の擦り合わせを繰り返しつつ、「違う」ものをちゃんと「違う」と言ってやることこそが、学問に向き合う真っ当な姿勢なのではないでしょうか。

 国語に限らずとも、指導者が折り目正しく「違う」と言ってやることは不可欠なのです。黙々とヘンな計算をしている子に対して「そういう考えもあるよね」なんて寝言を言っているヒマなどないのです。教育とはどこまで行っても「矯めること」つまりは、隠しきれない矯正/強制力を持つものであることは『監獄の誕生』を引くまでもありますまい。

 「違う」というワードを敢えて人々が封印したがるのは、そうしたキョウセイの力が見え透いてしまうことを忌避したいがためなのやも知れませんが、今さらそんなものを体よく隠蔽したところで、「学習内容を覚えろ」という強烈なメッセージは誰よりも子供達には見え見えなのです。

 如何なるレベルであろうと、子供を「矯める」という意味において、教育とはどこまで行ってもキケンブツであり、指導者とはそうしたキケンブツを取り扱う責任重大な役回りです。ですから、いづれにせよ掛けざるを得ないキョウセイ力は、一時にぎっちりと掛けて速やかに外してやらねばならないのです。

 そもそもそういう考えはあり得ないのに「そういう考えもある」という無定見がもたらすのは、学びの過程に曖昧さをもたらすノイズの増大に他なりません。「違う」と言われるショックこそないけれど、正解でもなければ間違いでもない、そんなぼやぼやとした所に置き去りにされた子供が、どうして幸せなことがありましょうか。

 「矯める」ことは一時。「矯める」ことを怠ればその分の苦しみは後々のツケとして溜まっていくだけなのです。一時は「違う」と否定しても、それによって子供がよい方向に芽を伸ばしたら、ちゃんと褒めてやる。果たして私が申していることは、古い時代のそれでありましょうか。