かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

国語の時間「小説の読み方」

 生徒のみなさんの中には、一定数「感情移入」という方法で小説の問題を解いている人もいるようです。

 作中人物の気持ちになって考える。なるほど、物語に没入して読み進めるという方策は、確かに理解を早めるものやも知れません。ですが、もしもその作中人物がドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」に出てくる「スメルジャコフ」みたいな得体の知れない奴であっても「感情移入」は可能なのでしょうか。

 それがムリだとなると、つまるところ点数の上下は「感情移入」が出来たか出来なかったかということになってしまうわけで、結果的にこれは賭博者的で不確実な方法ということになってしまいます。

 作中人物になりきるなんて、どだい無理な話なのです。「わかる、わかる!」と非常な理解と親近感を示したところで、相手は飽くまで虚構の人物。寧ろそうして理解を示す自分が寧ろ、自らをそこに投影して分かった気になっている可能性だってあるのです。(これは結構深いお話。)

 ですから「感情移入」的な読み方には、常に誤読の危うさがつきまとうわけです。自分だったらこのように感じて、このように考えるはずだ、という先入観が払拭されないままに読み進め、果ては問題制作者の巧みな選択肢のワナに陥るのが関の山でしょう。

 大事なのは根拠を集めることです。文中から感情の機微や、転換の契機となる瞬間を押さえて、「ここがこうだから、ここはこう考える」という筋の通った読みをすることが必要なのです。

 え? それでは何だか味気ない?

 果たしてそうでしょうか、私はそうは思いません。なぜなら、良いテクスト(作品)とは、そうした論理的読解に耐えるものであり、それに対してきちんとアンサーを投げ返しつつも、なお読者を魅了する豊かさを湛えるものなのです。

 そもそも、根拠のない「感情移入」的な読みが許されるのは「道徳」の時間に限った話なのです。「道徳」と「国語」の違いはまさに、「私だったら」が許されるか、許されないかにあるのです。

 ここをはき違えて「国語」を教える教員は、残念ながらポンコツも甚だしいわけで(笑)。

 ですから生徒のみなさんには、国語の教科書、国語の問題、ひいては文学作品に向かう時は、よろしくロジックを杖としてこれを読み進めていってほしいのです。

 まずは先入観を払拭し、真っ向からテクストを「読み」、その言語世界を広く見渡して後にはじめて、自分の「読み」と感想を述べるのが筋なのであります。

 さもなくば、文学作品と呼ばれるものは人々の共感のための小道具に成り下がってしまうでしょうし、精緻に調整された言葉の機微が「感情移入」という異物でもって無惨にも蹂躙せられてしまうことでしょう。

 小説の読み方。随分と大上段に振りかぶったタイトルにしてしまいましたが、別にこれは「評論の読み方」でも同じということがお分かりいただけることでしょう。

 言葉とはロジックです。しかし時に、言葉はロジックの力を借りて、ロジックでは説明の付かないことを表現することだって出来るのです。

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