かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

育児漫遊録(29) 注射の心得 Ⅳ


 かつて彼は紛れもない幸福の世界の住人であった。夜となく昼となくたゆたう羊水のゆりかごに、幸福な眠りを眠っていた彼は、ひょんなことから母の産道を下らねばならなかった。

 下ったところは生き馬の目を抜く変転めまぐるしき世界である。ゆめゆめ油断するなかれ、まどろみに閉じた瞳がみとめるのはギラリと光る注射針か、乳のにほひを漂わす産毛を聳やかすは冷徹なるエタノールの臭気やも知れぬ。

 我が子よ、と語りかける小児医院の待合室。私たちの他にもちらほら生後間もない赤子達と母御の姿が見えると、その月齢と発育の具合が気に掛かる。

 あの子は髪がずいぶん黒々としているし、あっちの子はうちのに比べて体ががっちり安定している・・・そんなことを比べても詮無いことは分かっているのだけれど、私のように小男の部類に入ったりしやしないか、私のように胃袋が弱かったりしやしないかのどうしようもない心配が、そんなことをさせているのである。

 とは言え我が子よ、私はお前に言って聞かせておくことがあるのだ。

 曰く、「注射は痛い」。注射とはその痛みと苦しみと無縁の体に針をぶっ刺すことである。それはもしかするとお前の人生に闖入してくる第一人者であるのやも知れぬ。

 さはれ我が子よ、注射をせねば後世よっぽど恐ろしかるべし。往古われわれ人類を苛みたる病苦に比すれば、予防接種の受難など一時に過ぎぬのである。人間とは未来に投企し得る生き物であり、今の生きられなさを甘んじて受けることで、その先の道に実りを期待しうるのが人間の美徳なのだ。

 息子よ、「注射は痛い。えらく痛いぞ。泣きたくなるだろうが、絶対に泣くんじゃないぞ」。医院の片隅、あまり他に聞こえぬよう憚りつつ私はそう息子に「注射の心得」を伝えたのであった。