育児漫遊録(28) 注射の心得 Ⅲ
かつて私の母は、これから注射を受ける幼い私に「痛いぞ、痛いから泣くなよ。」と言って聞かせたそうである。
なぜそんなことを言ったのか尋ねたら、何と言うことはない「痛くないわけがないから」だそうである。なるほどこれは一理ある。
方便とはいえ「痛くないからねぇー」なんてウソは、注射を打たれる当事者からすればトンだサギ事件である。いくら訳の分からない月齢であっても、やっぱりそんな見え透いたウソは好い気持ちがしないのではないか。
もしかすると世の赤子たちは、注射後に顔を真っ赤にして「痛くないって言ったよなぁ」と泣いて訴えているのやもしれない。となると「痛くない」よりも「痛いからな」の方が、よっぽど合理的で良心的なのではあるまいか。
我が子はこれから四発を、おそらく両手両足に打つのであり、私だったら物忌みと称してその日医者に出向くことを丁重にお断りしたくなるレベルである。健康診断の採血ですら私は怖くてならないのに、一発が終わってもう三発、というのは途方もない感じがする。
私はふとカフカの「流刑地にて」に登場するあの陰惨な機械を想像してしまって、あやうく小児医院の前を通過してしまうところであった。受難の我が子はすやすや眠っている。寝首を掻くようなマネをして、産まれて間もない子に信頼を損なわれてはかなわぬので、願わくはちゃんと起きているうちに接種の運びとなってほしい。
そして何より、打つ前にきちんと「注射の心得」を言い聞かせねばならぬのである。