かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

蝸牛独読(10)「西の魔女が死んだ」を読む#2


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一、まいのまなざし

 成長を論じるためには、成長以前の段階から分析を進めていく必要があるでしょう。

 まいは、中学一年生の五月から学校に行くことが「苦痛」になりはじめます。クラス内の女子グループの中に入って上手く立ち回ることに対して「何となくあさましく卑しく思えてきた」まいは、結局のところ孤立を余儀なくされ、グループ同士を結びつけるための「敵」とされてしまいます。

 これは古今東西どこにでも見られる構図であります。第三者を共通の敵として排除することで二者間の結束を強める、まさに彼女はグループ同士のくだらない団結を構築するためのスケープゴートとして排除されてしまったのです。

 これが「苦痛」でないわけがありません。しかしながら私が注目したいのは、そんな第三項排除の構図ではなく、寧ろ彼女がそうしたグループ同士で気を使いつづけることに「あさまし」さや「卑し」さを覚える視点を持ち得ている、というところなのです。

 これは客観的に状況を静観するまなざし抜きに得られるものではありません。彼女がママに「諭すように」通告している「あそこは私に苦痛を与える場でしかないの」という文言も、よくよく彼女なりに状況の推移や現状を分析した上での表明と言うよりほかないのです。

 この点からまいという人物は平生から身の回りの事象を、これはこういうものだ、と彼女なりに切り分け対象化する傾向を持っていたと考えることが出来ます。その証左として挙げたいのが、彼女がテクストの各所で行っている〈言(こと)分け〉というべき営為であります。(次回連載に続く。)