ちょっと中国側になった気持ちで考えてみる。ちょっとした貿易相手国で、今は経済的技術的にも求心力を喪いつつある日本という国が、「海洋放出やります。その安全性を説明しに来ました。」と言ってきたら、やっぱり「ハ? ふざけんなし。馬鹿じゃねぇの? ここは一つ思いっきりゴネて、素敵な譲歩を引き出してやりましょう。」という気になるのではなかろうか。(少なくとも私であったらそうする。)
『ありき』の思想の弱点は、もちろん見切り発車でぽしゃるというのもあるけれど、やはりその弱っちい知性を相手に丸出しにしてしまうところにあるのだ。
「他は何か考えなかったのか?」と尋ねられても、「これにすると決めたんで、説明を聞いて下さいよ。」なんて答え方をされて「じゃあ、いいよ」何ていう奇特な人が果たしてあるだろうか。他の二国はオーケーを出したようだけれど「やだね、信用ならない。」というリアクションを取った中国の方が、よっぽどマトモであると私は思ってしまう。
そんな日本政府は「中国は理解してくれなかった」の一点張りであって、いよいよアホを露呈してしまっている。それは「理解してくれなかった」のではなくて「理解してもらう努力を怠った」というのが正しいのである。
どうにもならなくなった大量の処理水をどうにかしなければならない、となった時にこの国の政府は「プランA」「プランB」とそのメリット、デメリットを含めて国民に示して広く議論に期すべきだったのではないか。その議論のプロセスこそが他国を説得するにあたっての重要な説得力になるのではないのか。
『ありき』の思想は国民を置いていく。それは果たして民主主義なのだろうか。選挙で当選したからといって、一つの政党がブラックボックスの中で独断したものを民意と呼べるのだろうか。これでは政治の関心もへったくれもないのであり、その喪われた関心が政治における『ありき』の思想を加速させる。