かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

些事放談 『ありき』の世界 Ⅲ


 原発処理水の海洋放出、鳴り止まぬメイワク電話、風評被害、食の安全性・・・これらの問題群にわれわれは如何に向き合ってゆくべきなのだろうか。

 これからの青写真を描いていくにあたって、まずは『ありき』の思想からの脱却が図られなければならない。決定したこと『ありき』で見切り発車した上に、「予想外」の不備が多発してまたもや行き当たりばったりでその場しのぎでしかない駄策を捻りだす愚には、もうわれわれは飽き飽きしたはずである。

 マイナンバーと健康保険証を性急に抱き合わせた結果、予想外の不備が噴出した挙げ句、ムダに税金を使ってヘンテコな保険証を配布する迷走ぶりは見るも無惨な一例である。

 不測の事態が起こったときに、「そんなとてつもない事態は想定していませんでした。」という言い訳はかの大地震よりこの方頻繁に聞くようになったような気がするけれど、「想定外」とはつまり想像力の欠如に他ならない。「気候変動だから想定外は当たり前だ」とか「千年に一度だから想定外だった」と言ったところで、誰も救われる人間はいないのである。

 だったら後悔しないためにも、使える限りの想像力を駆使して不測の事態に具えるための議論を興すのが、頭の良い人間のやり方ではないのか。『ありき』の思想で生きている近視眼的人間には、いまより先の未来が一向に見えていないのである。

 原発の危険性をあれほど骨身に染みて味わったというのに、この国は昨今の電力不足にかこつけて、しれっと原発に回帰している。原発の危うさは、人間の制御可能な範疇を軽々と超えるところにあるというのに、「安全だ、安全だ」という空疎な自己鼓舞とともに、政府は再生可能エネルギーという選択肢を議論の俎上から降ろしてしまって久しい。

 原発ありき、放出ありき・・・そんな思考停止がヨソの国々の目にはどう映るのだろうか。考え得るあらゆる選択肢を提示すること、そして開かれた場でその如何について討議すること、つまりは「よく悩む」ことこそがこの国には求められているのだと私は思うのである。
 鮮やかな政治決定より他に人間の知性を馬鹿にする行為を私は知らない。