かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

塾生心得 国語力とは何か Ⅲ


●国語力のある人間とは何か?

 さて、改めて問いましょう。国語の力とは何でしょうか。私はそれを「消化する力」であると思うのですが、塾生諸君は如何でありましょうか。 国語が出来る、ということは「読めば分かる」ということであり、「自分の考えを述べることが出来て」なおかつ「相手の意見に対してきちんと反論したり議論する」ことが出来るということなのです。果たしてこれだけのことが出来れば、その人間は自分で必要な知識を得ることが叶うでしょうし、如何な専門分野へと赴いていこうとも、そこで自分の意見主張と他者のそれとを擦り合わせたり、批判的に考察しながらとりあえず未来の方へ向かって建設的な議論を展開することだって叶うでしょう。

 それ故に国語の力とは、新たな「知識」つまりは自分の頭で考えるための糧を「消化する」のになくてはならない能力であり、これがあるのとないのでは自走可能な車とそうでない車ぐらいに違うのです。エンジンも持たずに誰かに押してもらうことでしか自走し得ない車など、ただのポンコツであります。もしかすると、現代の高等教育を経た人間にもこうした類いの人材が紛れ込んでやしないかと、私は常々危ぶんでいるわけですが、勤勉な塾生諸君はまさかそんな了見ではあらせられぬことでしょう。

 提示された文章を精確に読み取ることが出来れば、答えとして示された式とその筋道だって適確に読み取り、説明や解説を加えることだって出来るはずなのです。バリバリ文系の私が、満更でもなさそうに諸君に数学をレクチャーしうるのはそのためであり、これは単に国語力の応用に過ぎないのであります。なんたって、そこに書いてあることを言葉に置き換えて語ればよいのですから。それ故に私が解説し得ない教科や学問分野とは、私がその領域の言葉に精通していないことと同義なのであり、裏を返せばこれから猛勉強して新たな概念なり用語の意味に精通しさえすれば読み解けなくもない(かも)、ということなのです。

●ロジックをこえて

 最後に、これはいつも申していることですが、学問とは精緻なロジックの積み重ねであり、その積み重ねの先にダイナミックな未来の展望を切り拓くものであります。その中で国語、もとい私の専門領域である文学もまた論理がものを言う世界であります。しかしながらこれだけは付言しておきたいのです。「言葉とはロジックにはじまり、ロジックに終わるものであるけれど、時に言葉はロジックでありながらロジックから溢れ出るものを表現することが出来る。」と。

 さて諸君、世界は君たちの知らない言葉に満ちみちています。多くの言葉を獲得し、そして表現すること、思考することを止めてはなりません。「国語」とはそうした生涯をかけた不断の試みの第一歩であり、最良の手引きなのです。