かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

塾生心得 国語の話

 『国語をおろそかにする人は、英語なんて出来やしないし、数学だって分からない。』少し乱暴な物言いですが、これは私の持論です。
 国語という教科は、私たちの母国語である日本語という言語を使いこなすための練習です。そう言うと、中には「いやいや、フツーに使いこなしてますから、ダイジョブです。」と、スルーしてくる人があるかもしれませんが、これがホントにダイジョブではないのです。
 なるほど、われわれはふだん、それぞれの限られた生活圏内で日本語を日常言語として使用し、ほとんど不自由なく生活することが出来ています。しかしながら、いざ学校や模試で国語のテストを受けてみると、六〇点、七〇点という何とも言えないビミョーな点数を取って「まあ、これが平均ぐらいだから」と自分をなぐさめてみたりしていますが、これ、とても変だと思いませんか?
 なぜ、日本語がペラペラなのにテストになると、一〇〇点が取れないのでしょう。百歩譲って漢字や文法問題や、使われている語句がそもそも分からなかった、という知識的な問題はあるにせよ、ではどうして読解問題で失点を重ねてしまうのでしょうか。ここにこそ、国語という教科を通して鍛えられるべき力が不十分であることのしわ寄せが来ているのだと私は考えます。
 実際に私たちが日常生活で使用する言葉の数などたかが知れていて、下手をすると家で会話する時にいたっては、「ショー油」とか「リモコン」とか、日本語を覚えたての外国人レベルの単語を発するだけで間に合ってしまったりするのではないでしょうか。しかし、国語が問題にするのはあくまで書き言葉です。話し言葉と違って書き言葉を支える骨組みは、言葉と言葉の繋がりを成立させる論理に他なりません。AだからB、BだからC、ゆえにDであり……と、こう書くと何だか数学みたいですが、こうしたロジック、因果関係や筋道があってはじめて意味の分かる文章が出来ているのです。ですから、私たちが文章を理解するためには、その筋道を正確にたどっていく必要があるのです。まかり間違って道を踏み誤ると、とんでもない誤解に至り着いたり、作者の伝達したいこととはおよそ正反対のパチモンをつかまされるおそれだってあります。
 問題はやはり、言葉が複雑にからまりあう文、そして文章に向き合ったときに、それが何を伝えたくて言っているのか――どのようなニュアンスや意味を持つ言葉がチョイスされていて、なおかつそれが如何なる言い回しで使用されているのか、を正確に把握できないエラーが累積していくところにあるのです。分かったようなつもりで読み進めてはいても、ゆくりなく「これ、何の話なの?」と、段落や文章の大意を聞かれてへどもどしてしまう。これは一つに根本的な語彙力の問題であり、そしていま一つは、筋道を追跡し段落同士の有機的な繋がりをつかんでいく、論理的思考力の問題と言えるでしょう。
 そうした点に支障をきたしている人のほとんどは、おそらく文章を書くということもまた苦手にしていると思います。なぜなら、文章を書いてそれを人様に読ませるために練り上げるには、読解の辿る道筋の裏街道を行かねばならないからです。伝達したい内容を明確にし、それを可能にするためにどのような語彙をチョイスし、それを如何なる言い回しで組み立てて文章を構成していくのか。読解で問われることが、まさにそのまんま問われているのです。
 だからこそ、「読解して記述せよ」なんて言われた日には、手も足も出なくなってしまう。今回はたまたま記述が書けなかっただけだ、と変な安心をする前に、その文章を自分は本当に読めているのか、そこで自分が読み取ったものを正確に要約することが出来るのか確認してみる必要があるのです。これが出来ないと、大学へ行って学問をするにしても絶対に損をします。国語は受験の道具ではありません。国語で鍛えた言葉の力と、論理的思考力は、どんな学問を修める際にも絶対に必要となるスキルなのです。わが塾生諸子には、ぜひともこの一生モノの力を身に着けて学問の庭に踏み出していってほしいと願ってやみません。