かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(2) 「言はでも」の記

 今日は、よくできたねぇ。と褒められてまんざらでない子供。とそこへ飛んでくるキラーフレーズ「いつもこうだといいのにねぇ。」に、心底戦慄させられる。たとうるならば、油断したところへの致命の一撃。ようやっと本日のお勉強を、いや子供にとっては本日の仕事を終えたも同然の至極ハッピーなところへ、キンキンの冷や水をぶっかける所業である。
 なぜこんなことを言うのか。普段から少しずつ蓄積していたルサンチマンによるものだろうか。この小僧め、毎回毎回てこずらせやがって、こうしてそつなく出来るのなら、なんで普段からやらないのだ、――だいたいそんな感情がぽろっと口の端から漏れて出てくるものなのだろうが、そんな「言はでも」のことを言っているうち、「言はでも」のことを言わなくてもよい日はやってこない。だいたい、オトナの自分が今日の仕事に会心の出来栄えを感じているところへ、「いつもこうならねぇ。」と言われてみよ。立派なブチギレ案件である。それに、そんなことを言う上司は、最近流行の何某ハラスメントというみっともないハラスメント分類をされて、後々まで人々に忌避せられることになる。
 子供はナマモノである。そしてオトナもまた。うだつの上がらない日だってあるし、謎のヤル気が湧いて頑張っちゃいたくなる日もある。「あれ? きょうなんかオレ、調子イイんじゃね?」ってな感じのスペシャルな日が、たとい珍しいものであったとしても、そんな日は「よし、よくやった!」とシンプルにねぎらい、褒めるに越したことはないのだ。
 せっかくの快挙を踏みにじられれば、オトナも子供もイヤになる。そしてそのイヤーな気分は知らずしらずのうちに累積して、今度は他の誰かさんに「言はでも」なことをお裾分けしてしまう。これまた、たいへんにタチの悪い伝染の仕方である。さはれこのルサンチマンの伝染を食い止めるのは、昨今の流行り病を抑えることよりはるかに容易いはずである。なぜなら、「言はでも」のことを言わなければよいだけの話なのだから。
 ついつい言いたくなる気持ちは私だってよく分かる。分かるけれども同じ社会に根を下ろしている者同士、環境と立場は違えど、オトナも子供もお互い疲れているのは一緒なのだ。そこで一発グッと堪えて、「よし、よくやった」と言える御仁こそが「よくやった!」と褒められるべきなのだ、と私は思うのである。