かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

些事放談(3) お倫ぴっく

 心躍らぬオリンピックが二ッばかし、コロナのごたごたに紛れて過ぎ去ったような気がしたけれど、平和の祭典はザキザキした心持ちより外の何かをもたらしたのだろうか。
今さらではあるけれど、私はいまなお「なんだかなぁ」の気持ちで居るのである。

 この辺の現状は変わらないどころか、寧ろ悪化している。「この辺」と申すのは、私が在住する宮城県の片田舎、仙台から一時間の辺りにも、このところ頻りとコロナの爆弾が落ちるようになってきた。
最初は東京や仙台の状況を「こことは違う都会の話」と思って暮らしていたくらいだったのが、三月、四月に入ると状況が一変した。

 昨日まで教室へ元気に通っていた子が、突如濃厚接触判定を食らったり、学校が急に閉まって私と家内の教室も閉めざるを得なくなったり、こうなってはいついっか自分もコロナにとっ捕まるかわからない。
首都圏はこのゴールデンウィークでたいへん賑わったようであるが、別にその後で再び感染がぶり返すのもある程度承知の上でやっているのだろうから、実に逞しいものがある。

 しかしながら、とてもではないけれど私は自分からリスクを背負いに行くマネは出来ない。
こんな私は所謂「ウィズ・コロナ」の時流から置いてきぼりにされている、と揶揄されて当然なのだろうが、教育に携わる以上、子供をわざわざ危険に晒すマネだけはしたくない。
そんな倫理観は、やはり古くさいのかも知れないが、「私は」そんな感じでやっている。

 どうやらコロナの時代は、われわれ一人ひとりの倫理観が試される時代であるらしい。スーパーへ出れば、マスクをしない人とも遭遇するし、教室へ出れば、家族が濃厚接触者だけれど子供を送り出す家庭もある。

 倫理観に絶対なんてものはないのだから、どれが正しくて、どれが正しくないとも言えない。
ただ、ひとつだけ言えるのは、そんな倫理と倫理を擦り合わせていくことによってしか、最適解は生まれないということだ。

 オリンピック。どうやら私の心をザキザキさせたのは、オリンピックが浮き彫りにした政治家の倫理観と、私のそれとの如何ともしがたい乖離だったのだろう。

 世はまさに「お倫ぴっく」。一億人の一億個の倫理観がざわめいて、コロナの風に戦いでいる。