かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

弟子達に与うる記(4) 学問を血肉化せよ

 本で読みかじって知った気になっているだけ。それを自分の言葉に落とし込むことも出来なければ、そこから自分の考えを新たに出発させることもできない。それは血が通っていない「借り物」の思想であります。

 そんな「人のフンドシで相撲を取る」人物のタチの悪さは、自分が「これだ!」と確信してしまった思想を絶対化するあまり、偏った見識と狭隘な視野でしか物事を判断できない点、そして「じゃあ、あなたは自身はどう考えてるんだ?」という質問に応えられない点にあります。

 哀しいことに、これは学問の逆コースを行っていると言うほかありません。先にも述べたように、学問とはもののの見方です。学問に様々な専門領域があるように、そのそれぞれに異なるものの見方があるのです。そしてこれらは、そのうちのいずれかが絶対化されてよいものでもなく、それぞれがそれぞれの立場から、多様な意見や異議を唱え合ってこそ正しく機能するものなのです。

 一つの学問が絶対化されることによって生じる如何ともしがたい歪みは、ナチスドイツに採用された「優生学」の例を引くまでもないでしょう。だからこそロクに自分で考えることもなしに、一個の自閉的な思想や「借り物」の思想に凝り固まる人物は学問をする人間の風上にもおけないというわけなのです。

 学問はつねに自身について批判的でなければなりません。それは学問をする自身も同じことで、自分の考えや現時点における思想に絶対というものはなく、他者の知見を受け容れたり、批判を真っ向から受けとめて反省および軌道修正ができてこそ「おお、この人はちゃんと学問をやってきた人だな」ということになるのです。

 「これは、こうじゃないといかん!」なんて言ってしまう御仁は、はっきり言って研究者としてオワコンであって、学問と権威を同じもののように錯覚しているアホに過ぎません。学問相対的であるべきなのに、とりたてて一つが権威化されてしまっては意味がありません。

 ですから、諸君は多く読み、多く考え、多く他者と意見を交換し、そして時々痛い目をみながら反省し、その蓄えた知識や思想を真に血の通ったものとして身につけることに心を砕く学生におなりなさい。それこそがわが学び舎の宿願であるのです。

 何? ずいぶん筋トレ的だと申されるか?

 さなり、さなり、学問とは意外と体育会系っぽいタフさが必要なのかもしれませぬ。