上手な似顔絵を見た人々は、口々に「○○っぽい」「似てる!」と感嘆するけれど、写真をみてまさかそんなことを言う人々はいないでしょう。
こんな樹が山の中にありそうだ、と人々に思わせるためには、そのものを見せるよりも「っぽい!」と直感させるものの方が効果的なのです。
マイナスの数同士をかけ合わせるとプラスへと転じることをイメージしてみてください。
鉢に入っている時点で自然っぽさはやはりマイナスにふれています。だったら鉢の中で手を加えず、のびのび育てれば自然っぽくなるか、というとそうではありません。
盆栽という遊びの面白さは、そこにまた一手間、非自然の産物である「樹形」をかけ合わせるところなのです。するとどうでしょう、それまでその一鉢にちらついていた「鉢に入れた人」の影がふっと消えて、あたかもその一樹が深山の空気をそのまま連れてきたかのような風格を漂わせはじめるのです。
かく言う私も、まだまだそんな樹はつくれていないわけでありますが、「樹形」とはそもそも「こんな樹があったらいいなぁ」という理想を凝縮したものなのかも知れません。
写真ではなくて似顔絵、スケッチではなくて山水画。目に見えた自然をそのまま表現するのではなくて、それを一度内面に取り込んで、そのエッセンスを抽出したものが「山水」の描く自然であり、そして「樹形」であります。
だからこそ「山水」の理想郷的画面にも「樹形」にも、無加工な自然というものは存在しないし、寧ろそこにあるのは加工され「似顔絵」的にデフォルメされた自然なのです。
いや、そもそも「自然」などという言葉でもって自然を対象化した時点で、それは自然ではないのかも知れません。ですが、一つだけ確かであるのは、盆栽という文化がわれわれなりの「自然」表現を提出し続けているということでありましょう。