かたつむり学舎のぶろぐ

本業か趣味か、いづれもござれ。教育、盆栽、文学、時々「私塾かたつむり学舎」のご紹介。

教育雑記帳(36) 言葉の感度 前編

 CMの台詞、ゲームの横文字、家族の会話。

 これらはみな、私の語彙を育てるのに一役買った立役者たちであります。

 今の子供達はテレビよりユーチューブで、自分の好きなものだけ選りすぐって観る、という恩恵に浴しているようですが、「テレビっ子」として育った私は、テレビの〈雑多さ〉に随分いろんな言葉を教えてもらったように思います。

 好きな番組を観ていても、必ずあのお馴染みの青い画面が出てきて「ご覧のスポンサーの提供で」が挿入される。幼き日の私は「ゴランノ」も「スポンサー」も「テイキョウ」も判然としませんから、まるでそれを何かの呪文よろしく聞いていたものです。

 何回も繰り返して見たり聞いたり、テレビに限らず日々の巡りの中で浴びたり触れている言葉というものは、不思議と頭にこびりついて残っているものです。ある時までは皆目その意味が分からないけれど、長じるにつれて「ああ、そういうことだったのか!」と分かる瞬間が来る。

 もちろん誰かにその意味を教えてもらって分かるということもありましたが、用例が集まってくることによって、その意味が分かってくるパターンもありました。

 例えば「スポンサー」という言葉。いつもの「ご覧の・・・」意外に「今日はスポンサーがいるから、好きなものを頼め」とか「強力なスポンサーがついた」とか、テレビや日常会話でいくつかの用例を示されるにつれて、それが『手助けしてくれる人』みたいな意味であることがだんだん分かってくる。

 ここまで意味が確定してくれば、あとは使いながらそれをこなれたものとして〈消化〉してゆけばいいのです。

 まさに辞書を作るような手続きですが、やはりこれが私的、語彙習得のスタンダードであったように思います。やはり、こうしたことが出来たのには、言葉に関して今も昔も変わらず、何かしらのアンテナを張ることが出来ていたことが幸いしていたように思います。