大学できちんと学問を修めた人間ならば「教師」となるにあたっての必要条件を満たしていると言えるでしょう。しかし、それは十分条件ではありません。
では、その「十分条件」とは何でしょう。
私が思うに、それは一つに肉体的及び精神的な体力であり、今一つが「教える」ことの特異性、危険性を理解することであります。
後者については実地でやってみて、自分で考えてみないことには納得できない部類の話でありますから、それはひとまず擱いておくとして、問題は前者の「体力」の問題であります。
私はかねてより、諸君に「教員免許は取れたら取っておきなさい」ということを申して来ました。それは知識人として、いざという時に食いっぱぐれないためです。
諸君は大学においてきちんと学問をすることでしょうから「必要条件」は大いに充たしているはず。教壇に立っていても大丈夫、と私が太鼓判を押してあげる所存でありますが、ただ一つ心配であるのは、諸君がそこで折角の才能を消耗してしまいやしないか、ということなのです。
現今の日本において「教師」は消耗品のごとく扱われています。既に言い古された「ブラック」なんて言い方でその忙しさ、過酷さを表現するよりも、私が問題として捉えているのは、その専門性の「摩滅」と言うべきものです。
一度教員をはじめてしまうと、教員であるかぎりその専門性から遠ざかっていく。これが私が実際に教員を務めた時の実感でありました。
小手先の技術は年月の積み重ねによって磨かれていくわけですが、その人間が学んできたことを活かしたり、教科の専門的知見を深める時間があまりにも不足しているのは、学校現場の深刻な問題です。
「教員には研修の義務がある」という文言はあってないようなもので、どうでもいい(驚くほどクソの役にも立たない)研修をさせられたり、やったこともない競技の部活に加担させられたりしているうちに、アフターワークの時間は削られ、休日は刮ぎ取られて月曜日からまたシャカリキに動き出すというのが、教員というものの現状に他なりません。
大学でいっぱしの学問をした人間が、疲れ果てた教員へと「摩滅」してゆく様は、最早替えのきく歯車と何ら変わるところはありません。
だから私はあまり諸君が「教員」になることはオススメしません。そんな補充要員みたいな響きのする教員が、「教師」として、つまりは人格的・学問的に研鑽を積んだ人間として大事にされる世の中が来たら考えてみてもいいけれど、今の学校で教鞭を取るのなら「出稼ぎ労働」くらいに割り切った方が賢明かもしれませんね。